<186>でご紹介したように、メルボルンとの熾烈な戦いを経て、オーストラリア初の万博は、1879年から80年にかけてにシドニーで開催された。

現在のシドニーの様子。
オペラハウスと高層ビル群。
photo©️Kyushima Nobuaki
といっても「オーストラリア」が英国から独立する前の出来事である。
なので、正確には「英国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)の植民地であるオーストラリア」で初めて開催された万博、ということになる。
そういった事情を反映して、いろいろな記録には、英国の「ヴィクトリア女王の名の下に」開会が宣言された、といった記述が見受けられる。
オーストラリアの英国からの独立
ちなみに、オーストラリアの英国からの独立は段階的に進んだ。
最初の動きはシドニー万博のずいぶん後の1901年である。
1901年1月1日
英国の6つの植民地が統合されオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)が成立し、事実上の自治国家となった。
しかし、外交権はまだ英国にあり、完全独立国というわけではなかった。
1931年12月1日
ウェストミンスター憲章が英国で成立。
これは、英国議会は自治領の同意なしに、その自治領に法律を作れない、というもので、英国の自治領に立法上の自治を認めた英国法である。
1942年10月9日
英国のウェストミンスター憲章をオーストラリア議会が受諾した。(ただし、効力は第二次世界大戦開戦時の1939年9月3日に遡及)。
これにより、英国議会から独立した立法機能を獲得し、実質的に独立したと見なされることもある。
1986年3月3日
オーストラリア法(Australia Act)が発効し、英国議会がオーストラリアの立法・司法に関与する余地が完全になくなった。
1986年とは、つい40年前までは完全に独立していなかったというわけであり、驚くべき長期間にわたる独立運動だったというわけである。
1879-80年シドニー万博の概要
シドニー万博(Sydney International Exhibition)は1879年9月17日 〜 1880年4月20日 の約7か月間開催された。
会場はロイヤル・ボタニック・ガーデン(王立植物園)に隣接(当時)した場所「ザ・ドメイン (The Domain)」に建てられた「ガーデン・パレス」(Garden Palace)。
入場者数は1,117,536人。
当時のシドニーの人口は約20万人、豪州全体でも220万人程度であることを考えると驚異的な人数だった。
そのうち料金を支払って入場したのは85万人と記録されている。
それでも十分に大きい人数といえよう。
参加国数は23カ国であった。
日本の出展
フランス、ドイツ、アメリカなどとならんで日本も明治政府として正式に出展した。
日本は、陶磁器(有田焼、薩摩焼)、漆器、ブロンズ像、金工、絹製品、扇子、屏風などの美術工芸品を出展した。
明治政府になってから1873年ウィーン万博、1876年フィラデルフィア万博、1878年パリ万博に公式出展してきたが、その流れで公式出展し、高い評価を受けた模様である。

ウィーン万博の日本展示風景。左に名古屋城の金の鯱、右に有田焼の大花瓶が認められる。
この美術工芸品の出展はますますパリやその他の地域で盛り上がっていたジャポニスムへの関心を掻き立てることとなったのである。
そして、このシドニー万博の跡地が今も残っている。
それについては、次の<188>、<189>で詳しくご紹介することにしよう。

