セーヌ川の遊覧船「バトー・ムーシュ」
セーヌ川を観光客を乗せて今も走る遊覧船「バトー・ムーシュ」。
この遊覧船に乗ると、パリの見どころの多くを一挙に見ることができる。
例えば、エッフェル塔、オルセー美術館、ルーヴル美術館、ノートルダム寺院などである。
今回筆者も久しぶりに乗り、万博関連事物を含めて多くの写真を撮ることができた。
この「バトー・ムーシュ」、じつはパリで第2回目となる1867年パリ万博の際に、観客を市内から今エッフェル塔のあるあたりのシャン・ド・マルスの会場、「シャン・ド・マルス宮」まで運ぶために就航したという、立派な「万博関連事物」である。

1867年パリ万博の会場「シャン・ド・マルス宮」

1867年パリ万博の会場「シャン・ド・マルス宮」
しかし、その前に「2つの『バトー・ムーシュ』」についてはっきりさせておかなければならない。
単数系、複数形、2つの「バトー・ムーシュ」
じつは、今回筆者が乗った「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouches)は正確に言うと、1949年にジャン・ブリュエルが設立したものである。
開業当時は1900年パリ万博当時の蒸気船が1隻あるだったという。
現在は、近代的な船舶15隻で年間250万人近くの乗客を楽しませているという。
この会社は、1949年設立。
ということは1867年にはなかったということになる。
この「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouches、複数形)は固有名詞なのである。
1867年パリ万博時の「バトー・ムーシュ」
じつは、「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouche、単数系)は普通名詞だった。
セーヌ川の遊覧船を一般に「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouche、単数系)というのである。
なので、「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouches、複数形、固有名詞)は、「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouche、単数系)の一部、ということになる。
「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouche、単数系)は、もともとリヨンのMouche地区で作られた船に由来し「ムーシュ船(ハエ船)」という意味のものだった。
「バトー・ムーシュ」は本来一般名詞であり、「バトー・ムーシュ社」(Bateux Mouches、複数形)も含め、他社のセーヌ川クルーズもこの呼び名で呼ばれる、という事情のようである。
なので、1867年パリ万博時に就航したのは「バトー・ムーシュ」(Bateux Mouche、単数系)ということになる。
バトー・ムーシュに乗ってみた
今回筆者が乗ったのは、1949年設立の「バトー・ムーシュ(Bateux Mouches、複数形)」社のものである。

バトー・ムーシュ乗り場のサイン、後ろにアルマ橋、エッフェル塔を望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ乗り場近くのサイン
周辺は工事中だった
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ乗り場近くからアルマ橋、エッフェル塔を望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ乗り場近くから、筆者の乗ったバトー・ムーシュのボート、その後ろにアルマ橋、エッフェル塔を望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ乗り場への入り口
この中に売店などがある
photo©️Kyushima Nobuaki
アルマ橋とアンバリッド橋の間のセーヌ川右岸(北側)に乗り場はある。
まず、上流(東側)に向かって進む。
グラン・パレを左手に見ながら、アレクサンドル3世橋の下をくぐり、オルセー美術館、ルーヴル美術館を見ながら、ノートルダム寺院の先でUターンする。

バトー・ムーシュ船上からグラン・パレを望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ船上からオルセー美術館を望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ船上からルーヴル美術館を望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ船上からアレクサンドル3世橋、その左後ろにエッフェル塔を望む
photo©️Kyushima Nobuaki
また同じコースを逆向きに進んで、左手にエッフェル塔を通り過ぎ、グルネル橋の「自由の女神」の先でUターンして乗り場に戻る。

バトー・ムーシュ船上からグエッフェル塔を望む
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュ船上からグルネル橋の『自由の女神』、うしろにエッフェル塔を望む
photo©️Kyushima Nobuaki
エッフェル塔のふもとに広がるのがシャン・ド・マルス(Champ de Mars)である。
このあたりに、1867年パリ万博のメイン会場、「シャン・ド・マルス宮」があったのである。
写真家ナダールの気球
パリの写真家ナダール(Nadar)は、1867年パリ万博時に、シャン・ド・マルス宮の上空に、客とカメラを乗せた水素気球を飛ばしたという記録がある。
これによって来客はパリ、そして万博会場を一望できたという。
このナダールは、彼のキャプシーヌ大通り35番地のスタジオで、1874年、のちに第1回印象派展、と呼ばれることになる美術展が開催された、ということでも有名である。
ここに展示されたのがクロード・モネの『印象・日の出』という作品である。
この作品は、批評家から「印象」という言葉で揶揄され、それが後にこのグループを指す「印象派(Impressionnisme)」という名称の由来となる。
その話はまた次回、ご紹介することにしよう。