(<184>より続く)
1872年ヴィクトリア植民地間博覧会
次に万博が開催されるのは1873年ウィーン万博であるが、その準備のため、これに先立つ1872年11月1日から73年初頭にかけて、「ヴィクトリア植民地間博覧会(Victorian Intercolonial Exhibition)」が開催された。
同じくメルボルン公共図書館と博物館 (Melbourne Public Library And Museum)を会場として開催され、ヴィクトリア州からの展示品が公開展示された。

現在の「ヴィクトリア州立図書館」(State Library Victoria)
photo©️Kyushima Nobuaki

現在の「ヴィクトリア州立図書館」(State Library Victoria)の内部。
トリップアドバイザーの「死ぬまでに行きたい世界の図書館15」 (2013年)に選ばれている。
photo©️Kyushima Nobuaki
この博覧会には約16万人が訪れたという。
1872年湯島聖堂博覧会(日本)との類似
この話は同じ年に日本で開催された「湯島聖堂博覧会」を思い起こさせる。
明治になりたての日本が初めて明治政府として参加した万博が1873年ウィーン万博であるが、その準備のために1872年に国内博覧会が企画されたのである。
開催期間は1872年(明治5年)3月10日 〜 4月30日であり、東京・湯島聖堂の大成殿で開催された。
名古屋城から取り外された高さ約2mの「金のシャチホコ」、古美術品、動植物の標本など、約700点以上が展示された。

湯島聖堂博覧会図。真ん中に名古屋城の金の鯱が展示されている。

湯島聖堂博覧会の様子。名古屋城の金の鯱の前の関係者たち。
これらの展示品は閉会後にそのままパッキングされ、翌1873年のウィーン万博へと送られた。

1873年ウィーン万博会場「産業宮」

ウィーン万博の日本展示風景。左に名古屋城の金の鯱、右に有田焼の大花瓶が認められる。
この湯島聖堂博覧会には50日間のあいだに約15万人が訪れたという。
これと同様の話がオーストラリアでも行われていたのである。
1875年ヴィクトリア植民地間博覧会
そしてアメリカで開催された1876年フィラデルフィア万博への展示品を集めるという目的もあり、1875年には再度ヴィクトリア植民地間博覧会が開催された。
開催期間は1875年9月2日 〜 1875年11月16日 (計76日間)で、開催場所はメルボルン州立図書館 (Public Library) と、それに隣接する特設の木造・鉄骨の建物(長さ約58m、幅約18m)であった。
この博覧会にはオーストラリアの各植民地(ヴィクトリア、ニューサウスウェールズ、南オーストラリア、タスマニアなど)に加え、日本やシンガポールなど海外からも少数の出品があった。
日本は七宝焼や陶磁器(特に薩摩焼など)、漆器、彫刻、生糸、茶葉などを展示し、高い評価を得たという。
多くの人が「驚嘆した」という記録もある。
1877年ヴィクトリア植民地間博覧会
そして、1878年パリ万博の準備のために開催されたのが1877年から開催されたヴィクトリア植民地間博覧会 (Victorian Intercolonial Exhibition)である。
開催期間は1877年9月28日〜1878年1月19日。
開催地はメルボルンの従来と同じ州立図書館とそれに隣接する特設の木造・鉄骨の建物(以前の博覧会でも使用された場所)だった。
この博覧会の目的は翌年1878年に開催されるパリ万博へ、ヴィクトリアおよび他の植民地から送る最良の製品、原材料、芸術作品を選定・組織化することであった。
植民地からの参加は、ヴィクトリア植民地が中心だったが、他のオーストラリア植民地(ニューサウスウェールズ、南オーストラリア、タスマニアなど)からの出品物も受け入れられた。
具体的なヴィクトリア植民地の展示品としては、植民地の産業製品、農産物(特にワインと穀物)、鉱物、そして芸術作品などがあった。
これらの展示品は1878年1月に博覧会が閉会すると、1878年5月20日から開会したパリ万博へ向けて船積みされたのである。
1877年第1回内国博覧会(日本)との類似
一方、日本では同じ1877年(明治10年)に第1回内国勧業博覧会が開催された。
開催期間は1877年(明治10年)8月21日 〜 11月30日の102日間であり、会場は東京・上野公園(寛永寺跡地)であった。
入場者数は約45万4,000人である。
この記念すべき内国博覧会は、大久保利通(1830 – 1878)が提唱し、上野公園を会場に開催された日本初の本格的な政府主催博覧会であった。

第一回内国勧業博覧会の様子。
じつはこの博覧会は、翌年の1878年パリ万博に向けた「国内予選」の場であった。
出品数約8万4,000点以上という中、この内国勧業博覧会で上位入賞した優れた工芸品(陶磁器、漆器、七宝など)は、政府によって買い上げられ、そのままパリ万博へと送られたのである。
結果、1878年のパリ万博において、日本とオーストラリアはそれぞれ「東洋の神秘」と「新世界の豊穣」を象徴する存在として、対照的ながらも非常に高い評価を受けることになったのである。
いよいよ1879-80年シドニー万博が開催
そして、いよいよオーストラリアで万博を開催しようという機運が盛り上がるのである。
しかし、その第1回目のオーストラリアでの万博をメルボルンで開催するか、シドニーで開催するか、この2つの都市の間で熾烈な戦いが繰り広げられることになるのである。(<186>に続く)

