<186>オーストラリアと博覧会④

1879-80 Sydney
1996年にメルボルンで誕生した世界的に人気のティーブランド T2 のメルボルン、シドニーの名前をつけた商品 photo©️Kyushima Nobuaki

<185>より続く)

シドニーとメルボルンのライバル関係

当時からメルボルンシドニーは強いライバル関係だった。

そもそもはシドニーは、1788年に流刑地として設立されたオーストラリア最古の植民地(ニューサウスウェールズ植民地の首都)という先発の優位性をもち、当初は政治と行政の中心地だった。

現在のシドニーの様子。
オペラハウスと高層ビル群。
photo©️Kyushima Nobuaki

一方、メルボルンは、1835年に非公式に設立され、自由移民によって発展した。

当初はシドニー支配下の「ポート・フィリップ地区」に過ぎなかった。

しかし、1851年にはヴィクトリア植民地がシドニーが首都のニューサウスウェールズから分離独立した。

この背景にはヴィクトリアでゴールドラッシュが始まり、世界中から資本と移民がメルボルンに流入したことがある。

メルボルンは急速に発展し、当時の大英帝国でロンドンに次ぐ第2の都市となり、金融と産業の中心地としてシドニーを圧倒した。

壮麗な建物が次々と建設され、「ワンダフル・メルボルン」と呼ばれるようになる。

現在のメルボルン市内の様子。
フリンダース・ストリート駅周辺
photo©️Kyushima Nobuaki

シドニー(ニューサウスウェールズ)も金を産出したが、ヴィクトリアほどではなく、メルボルンの勢いに押されることになった。

シドニーは古い流刑地のイメージを払拭し、メルボルンに対抗するために都市の近代化を急ぐことになる。

そんな中での万博開催地選定である。

シドニーとメルボルンの2都市による万博開催地争い

まずは、メルボルンが万博開催の計画を進めていた。1878年パリ万博に各国が出展したものをメルボルンでも展示しようということで1880年に計画をしていたのである。

しかし、それを聞きつけたシドニーは、「メルボルンに負けられない」という対抗心から、メルボルンよりも先に万博を開催するという強硬策に出たのである。

そしてシドニーは急いで開催を準備し、メルボルンより約1年早い1879年に万博を開催することに成功した。

1878年パリ万博に展示された各国の展示物はまずシドニー万博(1879年9月17日〜1880 年4月20日)で展示され、その後メルボルン万博(1880年10月1日〜1881年4月30日)で展示されることになった。

ことほど左様にこの2つの都市のライバル関係は熾烈なものだった。

オーストラリア連邦の首都争いも

そしてその後、オーストラリア連邦の首都を決めるときにも激しく争うことになるのである。

19世紀末、オーストラリアの各植民地が連邦化に向けて動き出すと、このライバル関係は政治的な頂点を迎えることとなった。

連邦の首都をメルボルンとシドニーのどちらにするかで激しく対立し、連邦成立の議論が停滞するほどだったという。

1996年にメルボルンで誕生した世界的に人気のティーブランド T2 のメルボルン、シドニーの名前をつけた商品
photo©️Kyushima Nobuaki

最終的には、「連邦の首都は、ニューサウスウェールズ州内に置くが、シドニーから100マイル(約160km)以上離れた場所に建設する」という妥協案が採択されることになった。

ただし、首都が建設されるまでの間、メルボルンが連邦の仮首都として選ばれ、連邦議会や政府機関が置かれたのである(1901年〜1927年)。

そして、この結果、両都市の優劣は決着せず、首都は中立地であるキャンベラに建設されることとなったのである。
(連邦首都としての指定は1908年、連邦議会がキャンベラに移転したのが1927年)

ということでいよいよ次回<187>からは1879-80年シドニー万博についてご紹介していくことにしよう。

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