<199>汽船ソラタ号の悲劇

1880-81 Melbourne
現在のカールトン庭園、ホッホグルテル・ファウンテンと王立展示館 photo©️Kyushima Nobuaki

汽船ソラタ号の座礁とその後の運命

話はメルボルン最初の万博、1880-81年メルボルン万博当時に戻る。

現在のカールトン庭園、ホッホグルテル・ファウンテンと王立展示館
photo©️Kyushima Nobuaki

メルボルン万博の王立展示館とカールトンガーデン の水彩画(Museum Victoria, 『Visions of Colonial Grandeur』より)

この万博を開催するにあたって、シドニーから転送されたもののほか、世界中からいろいろな展示物がメルボルンに向かって汽船に積まれて運ばれた。

しかし、1880年10月1日の開会式を迎えた時には、まだ多くのコート(Court : 展示区画)はできあがっていなかった。

その理由の象徴となったのが汽船ソラタ号(Steamer Sorata)の座礁である。

ソラタ号は、オリエントの鉄製スクリュー・スチーマー(約4,014トン)で、ロンドン発の定期航路船として豪州各港を巡航していた。

この1880年の航海ではメルボルン万博向けの展示品を含む貨物を搭載していた。

1880年9月3日夕方、ソラタ号はロンドンからの航海でアデレードに寄港したのち、メルボルンへ向けて出航した。

1880年9月3日午後8時30分頃に座礁

しかし、同日夜8時30分頃、南オーストラリア州ケープ・ジャービス灯台から約1マイル沖合で座礁し、船体は岩礁に乗り上げた状態になってしまった。

夜間で沿岸が霞んで見えたこと、強い潮流による操船への影響、羅針盤の偏差などが原因として挙げられている。

乗客・乗員は他の船(Victorian、Yatala、Adelaide など)にボートで移送され、灯台や付近の住民のもとに避難させられた。

この船にはメルボルン万博向けの多数の展示品、美術品などが積載されていたが、救出可能な積荷はほぼ回収され、万博会場へ運搬されたという。

復活したソラタ号

そしてソラタ号そのものは、その後、1880年11月13日に無事に浮揚され、そして修理され、運航に復帰したらしい。

<1>でご紹介した、ニール号のケースでは、1873年ウィーン万博で展示された日本の展示品を積んだニール号が伊豆沖で沈没して積荷の多くが失われた。

しかし、ソラタ号は座礁はしたものの、展示品の多くは回収され、船自体も修理されて運行復帰を果たしていたのであった。

アメリカのエリック・ザ・レッド号(Eric the Red)の悲劇

1880-81年メルボルン万博で悲劇に遭ったのはソラタ号だけではなかった。

エリック・ザ・レッド号はアメリカ・メイン州で作られた木造3本マストの貨物船だった。

1880年6月、ニューヨークを出港し、10月の開会に向けてメルボルン万博会場へと向かっていた。

ところが、1880年9月4日未明、ヴィクトリア州 ケープ・オトウェイ沖の礁(Otway Reef) に衝突し破砕・沈没してしまったのである。

約 25 名の乗組員と 2 名の乗客のうち 4 名が死亡するという悲劇を迎えることになったのである。

展示品の引き上げは公式には行われず、ほとんどは失われてしまったようだ。

その影響で、メルボルン万博のアメリカン・コート(American Court : アメリカ区画)は深刻な損失を受けることになった。

この船にはアメリカの展示物の約3分の1が積載されていたのだ。

アメリカにとっては、かなり展示物が欠けた状態での不本意な万博開催となったのである。

失われたものの中には、ミシン(Wheeler & Wilson社製)、農業機械、斧などの工具類、ピアノ、オルガン、高級家具、玩具、大量の灯油(ケロシン)、タバコ、シルバープレート(銀食器)などがあった。

万博にトラブルは付きもの、とはいえ、アメリカの担当者はさぞかし大変だっただろう。

このエリック・ザ・レッド号の残骸は、いまでもケープ・オトウェイ沖の海中や砂中に散在しているという。

ダイビングで一部の残骸を見ることができたり、船体の一部(船側の大きな板)はパーカー・インレット付近の砂の下に埋まっており、非常に稀ではあるが、条件がそろうと砂が削られて、一時的に露出することがあるという。

ロック・アード号の悲劇とミントン製「孔雀(ピーコック)」の奇跡

ソラタ号エリック・ザ・レッド号以外にも悲劇にあった船があった。

その名はロック・アード号。イギリスの3本マストの鉄製帆船だった。

ロック・アード号は、ロンドンからオーストラリアへ向かう3ヶ月の航海の終盤、深い霧の中でヴィクトリア州沿岸の岩壁に激突し、沈没した。

この船の積荷の中には、イギリスの陶磁器ミントン社1879-80年シドニー万博、そして1880年から始まるメルボルン万博出展のために製作した「マジョリカ焼きの孔雀」が入っていたという説がある。

シドニーのガーデン・パレス 1879年
(State Library of Victoria, 『Visions of Colonial Grandeur』より)

ミントン社といえば1851年ロンドン万博から出展していた万博的にも歴史あるブランドである。

この孔雀は複数作られており(一説には10-20体)、1876年フィラデルフィア万博1878年パリ万博でも展示されていたらしい。

そして、このメルボルン万博に出展されたという説もあるのだ。

しかし、それもロック・アード号とともに沈んで回収されたものか、別の個体かは、現在の調査では不明なままである。諸説あり、という状態で正確なところはなかなか把握できない。

ただ、同じシリーズの作品は、現在、オーストラリアのフラッグスタッフ・ヒル海事博物館(Flagstaff Hill Maritime Village)に常設展示されており、「グレート・サークル・ギャラリー」の中心展示となっている。

評価額400万オーストラリアドル(約4億円)のこの像は、電子セキュリティ付きのガラスケースに収められて保護されている。

1975年9月9日に同館が購入して以来、博物館を離れたのはわずか2回だけということである。

1回目は、1980年。ロイヤル・エキシビション・ビルディングの建設100周年記念式典のためにメルボルンで展示された。

そして2回目は、1988年ブリスベン万博。この時は(ヴィクトリア州パビリオンの入口に展示されたという。

ということで次回からは「ルネ・ラリック展」等北陸視察のレポートをはさんで、1988年ブリスベン万博についてご紹介していこう。

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