<183>オーストラリアと博覧会①

1879-80 Sydney
現在のシドニーの様子。 オペラハウスと高層ビル群。 photo©️Kyushima Nobuaki

今回からオーストラリア編

<182>まで2025年2月〜3月に行ったヨーロッパ視察(パリ、バルセロナ、ロンドン)に基づいた記事をお届けした。

まだ詳しくはいろいろとトピックスはあるものの、一旦ヨーロッパ編はここまでにして、次はオーストラリア編に入ってみたい。

2025年12月初旬、筆者はオーストラリア視察を行った。
オーストラリアの12月といえば夏である。
寒い東京から一転、真夏の日差しが強烈である。

筆者がオーストラリアに以前最後に行ったのは2005年「愛・地球博」が開催中のことだったので、もう20年前ということになる。

現在のシドニーの様子。
ハーバーブリッジ。ロンドンと異なり青空が美しい。
photo©️Kyushima Nobuaki

現在のシドニーの様子。
2025年12月5日、オペラハウス上のスーパームーンに遭遇。
photo©️Kyushima Nobuaki

オーストラリアと万博

オーストラリアでは、万博ということでいうと、過去4回開催されている。
それは、

1879-80年 シドニー万博    1879年9月17日〜1880年4月20日
1880-81年 メルボルン万博   1880年10月1日〜1881年4月30日
1888-89年 メルボルン万博   1888年8月1日〜1889年1月31日
1988年 ブリスベン万博      1988年4月30日〜10月30日

の4つである。

19世紀に開催された3つの万博はいずれも大英帝国の植民地博という位置付けのものであった。

そしていずれも、本人は出席はしなかったものの、ヴィクトリア女王の名の下に開催されたものである。

ヴィクトリア女王 Victoria

1901年にオーストラリア連邦が成立する以前は、オーストラリア大陸には主に6つの大英帝国植民地ニューサウスウェールズ、クイーンズランド、南オーストラリア、ヴィクトリア、西オーストラリア、タスマニア)が存在した。

これらの植民地は大英帝国の統治下にあり、つまりオーストラリアの(初代)女王もヴィクトリア女王だったということになる。

ヴィクトリア女王といえばもちろん世界初の万博である1851年ロンドン万博を強く支持した人物であり、彼女の夫であるアルバート公が中心となってロンドン万博を成功させたのであった。

このあたりの話はロンドン編の<126><127><128>あたりでご紹介した。

オーストラリア植民地の歴史

さて、オーストラリアには約5万年前から先住民アボリジニが生活を営んでいた。

西洋人が到達したのは1642年オランダ人のアベル・タスマンが現在のタスマニア島やニュージーランドに到達した。

1770年、英国のジェームズ・クックがオーストラリア東海岸を探検し、その全域を英国領と宣言した。そしてその場所の「ニューサウスウェールズ」と名付けたのである。

1788年1月26日アーサー・フィリップ提督率いる第1船団が現在のシドニー港に上陸し、「ニューサウスウェールズ植民地」を設立した。

その後植民地は拡大していく。

タスマニア(1803年)、クイーンズランド(1824年)、西オーストラリア(1829年)、南オーストラリア(1836年)、ヴィクトリア(1835年)など、各地に新たな植民地が設立されていった。

1850年代にニューサウスウェールズやヴィクトリアで金が発見され、ゴールドラッシュが起こり、世界中から移民が殺到した。

特にヴィクトリア植民地(メルボルン)は急成長を遂げ、大英帝国で最も豊かな地域の一つとなったのである。

現在のメルボルン市内の様子。
フリンダース・ストリート駅周辺
photo©️Kyushima Nobuaki

そして1850年代半ばには、ニューサウスウェールズ、ヴィクトリア、タスマニアなどの植民地で自治政府が誕生し、独自の議会を持つようになっていたのである。

そして世界は万博の時代へと入っていく。(<184>に続く)

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