内田祥三(うちだ よしかず)と万博
前話、<39>ブーダンのパリ万博金賞受賞作品を発見!(松岡美術館)では、最後のパートで、建築家であり、東大総長もつとめた内田祥三(うちだ よしかず、1885-1972)のことについて触れた。
彼は、1923年関東大震災の後、その耐震・耐火建築研究の成果をもって、今も残る東京大学キャンパス内(本郷、駒場)の多くの建物を設計し、その後東大総長もつとめた人物である。
また、彼は、1939/40年ニューヨーク万博、また、同じ年に開催された1939/40年サンフランシスコ万博の日本館の設計も手掛けている「万博関連人物」でもあった。
<39>話でご紹介した松岡美術館と、内田祥三の設計した「旧公衆衛生院」が残る、現在の東京大学医科学研究所のキャンパスは同じ白金台で距離的には近い。徒歩圏内である。
東京大学医科学研究所キャンパス西口の入り口は本当にすぐだが、「旧公衆衛生院」の入口は少し歩く必要がある。
今回は、この「旧公衆衛生院」をご紹介したい。
ロックフェラー財団の支援・寄付で建てられた「国立公衆衛生院」
実は、この「旧公衆衛生院」であるが、現在は、港区管轄になっており、正式には「港区立郷土歴史館」という施設になっている。
しかし、建物内部を見学するには特に入場料もかからない。
「港区指定文化財 旧公衆衛生院 建物見学のご案内」というパンフレットも置いてある。
白金台駅の2番出口からでると、すぐに入口が見つかる。
そこには丸く大きな銀色のサインに、
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医科学研病院
医科学研究所
東京大学
IMSUT Hospital
The Institute of Medical Science
The University of Tokyo
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と書かれている。
そして、その奥には、東大本郷キャンパス正門を思わせる立派な門がある。
しかし、今回はその右側の通路から「港区立郷土歴史館」の方へ向かう。
こちらには横長の次のようなサインがある。
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旧公衆衛生院の建物見学無料/カフェ、ショップ併設
港区立郷土歴史館
開館時間:午前9時〜午後5時(土曜のみ午後8時まで)
休館日:毎月第3木曜日、年末年始、特別管理期間
MINATO CITY LOCAL HISTORY MUSEUM
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それにそって右手の通路を歩いていくと、威風堂々とした、東大本郷キャンパスにあってもおかしくないようなデザインの建物が忽然と目の前に現れる。
これは、まさしく「内田ゴシック」といわれた様式である。
左右に翼を広げたような構造であり、左右から迫られているかのように圧倒される。
そしてその真ん中の池にはカスケードが設けられている。
一見しただけで、ただものではないとわかる建築物である。
この「旧公衆衛生院(国立公衆衛生院)」とはどんなものだったのだろうか。
ウィキペディアによると、次のようにある。
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国立公衆衛生院(こくりつこうしゅうえいせいいん、The Institute of Public Health)は2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。
公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。
2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法により現在は埼玉県和光市に移転している。旧建物は文化財的価値から保存され、ゆかしの杜として2018年にオープンした。
年譜
1923年(大正12年)9月1日、米国ロックフェラー財団から、関東大震災後の災害地復興援助の一部として、公衆衛生専門家の育成・訓練機関の設立について、日本政府に非公式な連絡があった。
1930年(昭和5年)、日本政府は公衆衛生院および学生の臨地訓練機関としての都市および農村保健館の設計図・公衆衛生院の計画案をロックフェラー財団へ送付した。この計画案が、財団で了承され、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。政府は東京帝国大学伝染病研究所および同附属病院と同じ敷地内に隣接して建設に着手した。(以下略)
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1923年の関東大震災後の災害地復興援助として、アメリカのロックフェラー財団からの支援・寄付を受けて日本政府により設置された、ということである。
竣工は昭和15年(1940年)。
その後、2002年に国立保健医療科学院として統廃合され、埼玉県和光市へ移転するまでこの建物は使用されていた。そして、2009年、港区がこの建物と敷地を取得し、改修したのち、2018年に港区立郷土歴史館としてオープンし、現在にいたる、ということになる。
「旧公衆衛生院」内部を視察
さて、早速中に入ってみよう。
先述したように、建物の見学だけであれば入場料も不要である。
正面(エントランス階=2階)から入って左奥の方の奥まったところに100円返還式の無料コインロッカーもあり、そこで助手0号とともに荷物を預ける。
まずは、エントランス階である2階正面から入ったところの「中央ホール」である。
正直、思ったほど大きくはないが、なかなか高級感あるデザインである。吹き抜けの円形のデザインも美しい。
340席を有する「旧講堂」
その後エレベーターで6階に上がり、「旧寮」だったところの窓などを見て、4階に降りて、「旧講堂」へと向かう。
ここは340席を有する階段状の講堂である。まさに昔の大学の大教室の雰囲気である。
パンフレットに「椅子のクッションと天井板以外は建設当初の部材がそのまま残されています」とある通り、なかなか年季の入った感じである。
昔懐かしのセントラルヒーティング式の熱水を使ったラジエーターもあった。
新海竹蔵作のレリーフ
ここには、新海竹蔵作の「羊」、「葦鷺」というレリーフも飾られている。
(正面上部左右)
これらは1938年(昭和13年)より設置されているらしい。
解説によると、次のようにある。
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この作品と同様のレリーフが、新海の出身地である山形市役所にも所蔵されています(昭和33(1958)年購入)。材質は陶製と思われますが、新海がこの画題を選んだ理由とともに、現在調査中です。
なお、内田祥三の設計になる建築物に新海作蔵の作品が設置される例としては、ほかに
・東京大学総合図書館(昭和3(1928)年)の3階ホール正面のメダリオン(春夏秋冬を表す4点)
・東京大学総合図書館の正面玄関上のレリーフ (「力・序・義・買・生・和・慈・玄」を表象する動植物8点)
・東京大学医学部付属病院(昭和13(1938)年)のレリーフ「診断・治療・予防」
の3件が知られています。
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また、新海竹蔵については、次のようにある。
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新海竹蔵
TAKEZO SHINKAI 明治30(1897)年-昭和43(1968)年
大正-昭和時代の彫刻家。仏師の長男として山形に生まれ、大正元(1912)年上京し、伯父である新海作太郎に師事し、日本的な形態の感覚を重んじた彫刻を制作した。同4年の第9回文展に「母子」が初入選して以来、官展に出品。同13年、第11回院展に「姉妹」が入選、昭和2(1927)年には日本美術院同人になった。昭和27年から東京教育大学講師として後進を指導。同30年第1回現代美術展出品の「少年」で芸術選奨文部大臣賞受賞。同36年に日本美術院彫塑部が解散すると、桜井祐一らとS.A.S(彫刻家集団)を結成。2年後S.A.Sを解散し、国画会に合流して彫刻部を再興した。
木彫から出発して独特な技法を生み出し、木心乾漆(もくしんかんしつ)による塑像(そぞう)的な表現や、プラスチックによる彫刻などさまざまに試みた。常に新しい試みを抱いては果敢に挑戦した作家であったといえる。
参考:図録『日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ』(1991年)図録『日本彫刻の近代』(2007年)
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「採光用プリズムガラス」
その後、3階の「旧院長室」や、2階の「旧図書閲覧室」、1階の「旧食堂」などをみる。
そして、その1階には、「採光用プリズムガラス」が残されていた。
そばに置いてある解説には次のようにある。
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日の光が届かない地下1階は、当時の電気では明かりが足りず、外光を取り入れる工夫がされていました。ホール背面、窓の外の底の屋根材をガラス板にし、ホールの床をプリズムガラスにすることで、外光が地下に届くように設計しています。現在は、地下からプリズムガラスに光を当てて展示・保存しています。
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なるほど、建物内部にもいろいろな工夫がしてあることがわかる。
なかなか外部のデザインも素晴らしく、内部も見どころの多い建築であった。
今年2023年は1923年に発生した関東大震災100年の年であるが、その関東大震災がきっかけになって内田祥三が、その耐震・耐火建築研究の成果をもって、様々な東大関連の建築物を設計した。
そしてそれら内田の傑作がまだいろいろなところに存在し、活用されているのをみるとなかなか感慨深い。
実は、この視察の過程で、非常に重要な情報を「発見」(!)したのだが、それについては次の機会に譲ることにしよう。