<153>ピカソ『科学と慈愛』とパリ万博出品作品『臨終』

1900 Paris
パブロ・ピカソ『科学と慈愛』 photo©️Kyushima Nobuaki

バルセロナのピカソ美術館

<143>以降、バルセロナの万博にまつわるトピックスをご紹介してきたが、いよいよパブロ・ピカソ(1881 – 1973)である。

やはりバルセロナに来たらピカソ美術館を訪れないわけには行かない。
筆者が前回訪れたのは30年以上前になる。

その時は、1992年に開催されたバルセロナ・オリンピック関係の文化イベントのパーティをこの美術館で開催した。

この美術館はモンカダ通りにある13~15世紀の邸宅を改装して1963年に開館した。

ピカソ美術館の案内標識
photo©️Kyushima Nobuaki

ピカソ美術館の近辺の様子
photo©️Kyushima Nobuaki

ピカソ美術館入り口付近
photo©️Kyushima Nobuaki

ピカソ美術館入り口
photo©️Kyushima Nobuaki

この美術館は特にピカソの初期の作品が充実している。じつはこの辺りの話は、

<34>ピカソ『アヴィニョンの娘たち』は万博に出展されていた!?

ですでに詳しくご紹介済みである。

下記、そこから引用してみる。

ピカソと万博の接点

さて、それでは、そもそもピカソは万博とどう関係していただろうか。

ピカソと万博、といえば、1937年パリ万博スペイン共和国パビリオンのために制作した『ゲルニカ』が有名であろう。

1900年パリ万博に『臨終』を出展

だが、ピカソと万博の最初の接点は1900年パリ万博だった。

ピカソはスペイン・マラガで1881年に生まれた。
父親だったホセは、画家を志していたがあきらめ、美術教師をしていた。
彼はピカソに英才教育をほどこす。

そして、ピカソは1895年、バルセロナに移り、サンジョルディ・カタルニア王立美術学校に14歳という異例の若さで入学した。この学校は当時スペインで随一と言われた名門校であった。

ここでピカソは古典芸術の基礎を学んだ。
相当優秀だったらしく、飛び級で上級コースへ進む。

この頃の作品に『科学と慈愛』(1897)がある。
ピカソ16歳の時の作品で、この作品は数々の賞を獲得し、高い評価を受けた。
この作品の中に登場する「医師」は父のホセがモデルをつとめたという。

しかし、この頃すでに、ピカソは父ホセの伝統芸術の方向性に反発していたらしい。

バルセロナの「4匹の猫」(Els Quatre Gats)というカフェでさまざまな芸術家と知り合い、新しい芸術運動であったモダルニズマ(カタルーニャ語。英語では「モダニズム」。フランスのアール・ヌーヴォーと類似した芸術様式)に触れていたピカソは、父ホセの求める伝統芸術には反発するようになり、次第に父親との葛藤を抱えるようになったという。

その頃、父に言われて描いたのが『臨終』(1898)という作品だった。

この作品は1900年パリ万博に出品された作品である。

この作品は(後で述べるように)現存していないが、そのためのスケッチは見ることができる。
これも『科学と慈愛』と同じような伝統的絵画といったテーストである。
ということは、父親の強い意向が反映されていたことが想像される。

この『臨終』を描くことを条件に、父の許しを得て、1900年10月、ピカソは親友のカサヘマスとともにパリに向かうことになる。
ちなみに、パリ万博での『臨終』の評価は散々だったという。

『臨終』の現在

ピカソとカサヘマスはパリ到着後、芸術家が集まるモンマルトルの丘の中腹の屋根裏のアパートを借りて住むことになった。

このころ描かれたピカソの万博関連の作品としては、「パリ万国博覧会の出口で」(1900)というものがある。

これは、モノクロのスケッチのような作品である。

画面には、4人の男性と2人の女性が歩いている(ぶらついている)ところが描かれている。
手前には2匹の犬が見える。
人物たちの後ろに見えるのは1900年パリ万博時に建てられた「ビネ門」だろう。

1900年パリ万博「ビネ門」
Porte Bine, 1900 Paris Exposition

ピカソ(左から二人目)とカサヘマス(右から二人目)とともに、モデルとして誘ったアトリエ近くに住む女性二人が描かれている。

画面右端でカサヘマスに腕を絡める女性がジェルメーヌである。

ジェルメーヌ、ジェルメーヌの妹のオデット、その友達のリエラの三人は、ピカソとカサヘマスのモデルをつとめていた。

その3人が描かれているとされるのが、ピカソがパリに来て始めた描いた油絵作品である『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1900)である。

画面一番左手前の妖艶な女性がジェルメーヌといわれている。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』というとルノワールの作品(1876年作、オルセー美術館蔵)を思い出してしまう人が多いと思うが、ピカソも同じタイトルの絵を描いていた。

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』
Pierre Auguste Renoir “Le Moulin de la Galette”

ピカソの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は、ルノワールというよりはむしろロートレックの影響を感じさせる。

しかし、親友カサヘマスはこのジェルメーヌのために自殺してしまう。

1901年のことだった。

実はピカソはカサヘマスをジェルメーヌから引き離すために、二人でピカソの故郷のマラガにカサヘマスを連れてきていた。

しかし、カサヘマスは、ピカソがマドリッドでの展覧会のために不在の隙にパリに戻ってきて、ジェルメーヌを拳銃で撃ち(弾は外れて彼女は無事だった)、その後自分の右のこめかみに銃弾を打ち込んで死んでしまった。

ジェルメーヌの本名はフロロンタン(旧姓ガルガロ)といい、彼女はじつはすでに結婚していて夫がいた。このことはカサヘマスの死後明らかになったのである。

そして、カサヘマスの死の悲しみから、ピカソの「青の時代」は始まる。
ピカソは「カサヘマスの死を考えながら僕は青の画家になった」と言っていたらしい。
そして、「青の時代」の最高傑作が『人生』(”La Vie”)(1903、クリーブランド美術館蔵)といわれている。

実は、1978年、『人生』がX線調査され、新たな事実が見つかった。

この『人生』が描かれているキャンバスは、ピカソが1900年パリ万博のために制作して出品したあの『臨終』が描かれたものだったというのだ。

ということは、この1900年パリ万博に出品された『臨終』(のキャンバス)は現在、『人生』が所蔵されている米国オハイオ州クリーブランドのクリーブランド美術館(The Cleveland Museum of Art)にある、ということになる。

ピカソは、父親から言われて仕方なく描いた伝統的手法にもとづく作品『臨終』を塗りつぶして、みずからの「青の時代」の最高傑作をその上に描いたのである。

あらためて『科学と慈愛』を見る。
思ったより大きな作品である。

とても16歳の少年が描いた作品とは思えない完成度である。

パブロ・ピカソ『科学と慈愛』
photo©️Kyushima Nobuaki

パブロ・ピカソ『科学と慈愛』
photo©️Kyushima Nobuaki

また、近くには、この作品のための習作も3点展示されている。

パブロ・ピカソ『科学と慈愛』の習作
photo©️Kyushima Nobuaki

1900年パリ万博出展作品『臨終』『科学と慈愛』と同じような伝統的絵画といったテーストだった。

ちなみに、1900年パリ万博の「1889年ー1900年10年美術展のオフィシャルカタログ」には
ピカソの『臨終』は、スペインの部に

Ruiz Picasso (Pablo)
79. Deruiers moments.

として記載されている。

さて、あらためてこの『科学と慈愛』の前にたたずむと、父親や伝統絵画からのプレッシャーと自分が本当に描きたいものとの間で悩む若きピカソの葛藤を感じられるような気がしてくるのだ。

 

 

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