<177>オーギュスト・ロダン『地獄の門』

1900 Paris
オルセー美術館の『地獄の門』 photo©️Kyushima Nobuaki

ロダンの『地獄の門』

<173>からちょっと別の話題が続いたが、また今年のヨーロッパ視察のシリーズに戻る。

オルセー美術館の続きである。

このオルセー美術館にはオーギュスト・ロダン(1840-1917)の石膏型の『地獄の門』が展示されている。

入り口をはいった大空間に展示されている、この巨大な白い作品は、大変に目立つ。

オルセー美術館の『地獄の門』の展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

東京の国立西洋美術館等にある、8つ存在すると言われているブロンズの作品とは色が異なる、世界唯一の「石膏原型」である。

国立西洋美術館
The National Museum of Western Art

国立西洋美術館のロダン『地獄の門』
photo©️Kyushima Nobuaki

つまり、このオルセー美術館にある「石膏原型」から世界の8つのブロンズ作品はできているのである。

1900年パリ万博の機会に展示

ロダン『地獄の門』は、1900年パリ万博にあわせて展示されたが、ロダンの生前には完成していなかった。

『地獄の門』は、1880年にパリに新設予定だった装飾美術館の門扉として、ロダンが政府から制作依頼を受けたものであった。

しかし、この美術館の計画は実現しなかった。

ロダンは約37年間にわたりこの作品に取り組んだが、彼の生前にブロンズ鋳造されることはなく、未完成の状態のままであった。

1900年のパリ万博のときには、石膏原型が展示されたが、大部分の人物群像を欠いた不完全な形での出展となっていた。

ロダンと1900年パリ万博

そもそもロダンはこの1900年パリ万博では公式には、1889年から1900年の美術を展示した「10年展」(”Exposition Décennale des Beaux-Arts De1889 à 1900”)に数点を出展している。

この「10年展」については、下記過去の記事でも紹介している。

<82>アレクサンダー・カルダー展


<87>2024年パリ・オリンピックがスタート

<119>アルフォンス・ミュシャと1900年パリ万博

ロダンは、グラン・パレで開催された「10年展」には『接吻』(Le Baiser)『胸像』(Un Buste)の2点を出展した。

そして、プティ・パレで開催された「フランス美術100年展(Exposition Centennale de l’Art Français 1800-1889)」には『青銅時代』(L’Âge d’airain)『アダム』(Adam)『ヴィクトル・ユゴー記念碑』(Monument à Victor Hugo)など合計8点を出展した。

これらは万博の「公式出展」である。

しかし、この『地獄の門』はこの「10年展」や「100年展」に出展されたものではない。

万博から独立した大規模な「ロダン館」

ロダンは、1900年のパリ万博に合わせて、アルマ広場に「ロダン館」という自身の大回顧展のための巨大な建物を建設したのである。

1900年パリ万博「ビネ門」
Porte Bine, 1900 Paris Exposition

この「ロダン館」で、『地獄の門』の不完全な石膏原型が展示されたのである。

万博の機会に独立したパビリオンを作る ー これは1855年パリ万博1867年パリ万博クールベマネの万博会場とは独立した個展を思い起こさせる。

この「ロダン館」には、この『地獄の門』『考える人』『カレーの市民』『バルザック記念像』など当時のロダンの主要彫刻群が展示されていた。

国立西洋美術館のロダン『考える人』
photo©️Kyushima Nobuaki

国立西洋美術館のロダン『カレーの市民』
photo©️Kyushima Nobuaki

グラン・パレ、プティ・パレでの公式出展では数点の出展にとどまっていたが、この「ロダン館」がロダンの展示としてはむしろメインで、彫刻作品100点以上のほか、デッサンや写真も総合的に展示されていたという。

その時未完成ながら「ロダン館」に展示されていた石膏原型の『地獄の門』は、その後、ロダン自身の指示により1917年(ロダンが亡くなった年)に完成し、1986年のオルセー美術館開館後は、この1900年パリ万博ゆかりの場所で展示されているのである。

オルセー美術館の『地獄の門』
photo©️Kyushima Nobuaki

オルセー美術館の展示キャプションには次のようにある。(筆者が日本語に翻訳)

オーギュスト・ロダン
パリ 1840年 – ムードン 1917年
地獄の門
1880年から1917年の間
石膏
1880年、ロダンはフランス政府から、現在のオルセー美術館の敷地に建設予定の装飾美術館の入口に据える巨大な扉の制作を依頼された。
このプロジェクトは、ダンテの中世の著作『神曲』に着想を得ていた。
依頼は3年後に中止されたが、ロダンは想像力を解き放ち、扉に描かれた無数のモチーフを絶えず再解釈した。
これらのモチーフは、その後のロダンの生涯における様々な形態の宝庫となった。
これらのモチーフの多くは、後に『考える人』『接吻』『逃亡者』『ウゴリーノ』など、独立した作品となったのである。
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