<247>シンシナティ美術館展と日本趣味の画家ティソ ー徳川昭武に絵を教えたフランス人画家

1867 Paris
ジェームズ・ティソ《日本の工芸品を眺める娘たち》(1869年) シンシナティ美術館蔵 画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

上野の森美術館で出会った日本趣味の絵

<246>でご紹介した上野の森美術館で開催中の「シンシナティ美術館展」。

「シンシナティ美術館展 ~アメリカに渡ったヨーロッパの至宝~」
会場:東京・上野の森美術館
会期:2026年10月10日ー2027年1月10日

シンシナティ美術館展 サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

<246>では、19世紀のパリ万博で活躍した画家ジャン=レオン・ジェロームについて紹介した。

今回は、もう一人、万博と関わりを持つジャポニスムの画家を取り上げたい。

ジェームズ・ティソ(James Tissot、1836–1902)である。

この画家に関しては、筆者も仕事として携わった、1996年に東京都美術館、神戸市立博物館で開催された「モデルニテ ー パリ・近代の誕生 オルセー美術館展」に《舞踏会》という作品が出品されていたのでその頃から気にかけていた。

ジェームズ・ティソ《舞踏会》(1878年)
オルセー美術館蔵
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

今回の展覧会には、ティソの《日本の工芸品を眺める娘たち》(1869年)が出品されている。

ジェームズ・ティソ《日本の工芸品を眺める娘たち》(1869年)
シンシナティ美術館蔵
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

若い二人の女性が日本の工芸品を眺めている、いかにも19世紀の日本趣味を感じさせる作品だ。

この絵を見て、あらためてティソと万博の関係を調べてみたところ、ティソが万博に出品していたという事実の発見に加え、思いがけない縁につながっていくことがわかった。

「ジェームズ」は本名ではなかった

ジェームズ・ティソは、1836年、フランスのナントに生まれた画家である。

じつは、「ジェームズ」という英語風の名前は本名ではない。

本名はジャック=ジョゼフ・ティソ(Jacques-Joseph Tissot)という。

ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、ティソは幼い頃からイギリス文化に憧れ、1847年、まだ11歳の頃から「ジェームズ」と名乗るようになったという。

後にイギリスに移住したために名前を変えたのかと思っていたが、実際にロンドンへ移り住んだのは1871年のことである。

イギリスへの憧れは、ずいぶん早くから始まっていたらしい。

ティソはパリで絵画を学び、当時の上流社会の人々、とりわけ流行の衣装をまとった女性たちを描いた作品で知られるようになる。

そして、そんなティソが次に夢中になった異国の文化が、日本の美術工芸品だった。

ティソも1867年パリ万博に出品していた

今回調査してみたところ、ティソもまた、1867年パリ万博に出品していることがわかった。

1867年パリ万博の会場「シャン・ド・マルス宮」

公式目録を調べてみると、ティソの名前は35ページに掲載されている。

出品番号588と589の2点である。

588番は《逢い引き》(Le rendez-vous)
589番は《ミラモン侯爵夫人の肖像》(Portrait de Mme la marquise de M***)

後者は1866年に制作された作品で、現在はロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館に所蔵されている。

ジェームズ・ティソ《ミラモン侯爵夫人の肖像》(1866年)
J・ポール・ゲティ美術館蔵
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

この肖像画がなかなか面白い。

ピンク色の衣装をまとった侯爵夫人が描かれているのだが、その背後には鶴を描いた日本の屏風が置かれ、室内には日本の陶磁器なども飾られている。

ティソは、1867年パリ万博よりも前から、日本の美術工芸品を作品に取り入れていたのである。

では、ティソはいつ頃から日本に興味を持ち始めたのだろうか。

1858年の通商条約と日本趣味の始まり

今回の展覧会図録のティソの解説には、興味深い記述がある。

1858年、日本がイギリスやフランスと通商条約を締結し、それを契機に日本の美術品などがパリやロンドンの市場に流入した、というのである。

翌1859年には横浜などが開港し、日本の浮世絵、漆器、陶磁器、染織品などが、次第にヨーロッパに渡るようになった。

もちろん、日本の品々がヨーロッパに紹介されたのは、これが初めてではない。

1855年パリ万博でも日本の工芸品などが紹介されているし、1862年ロンドン万博では、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコックが収集した日本の美術工芸品が展示されている。

しかし、1858年の通商条約とその後の開港によって、日本の品々がヨーロッパの市場に流通するようになったことは、日本趣味が広まる大きな契機だったと考えられる。

ティソも、こうした時代の動きの中で、日本美術に魅せられていったのだろう。

実際、ティソは1864年にはすでに《入浴する日本女性》(La Japonaise au bain)という作品を制作している。

日本の衣装をまとった半裸の女性を描いた作品で、現在はフランスのディジョン美術館に所蔵されている。

つまり、1867年パリ万博よりも3年も前から、ティソは日本趣味の絵を描いていたのである。

日本の衣装を買い集めたティソ

ここで、もう一つ面白いエピソードがある。

1862年頃、パリのリヴォリ通り220番地に、デゾワ夫妻が日本の美術工芸品を扱う店を開いている。

この店は、初期の日本趣味の芸術家たち(ジャポニストたち)が集まる場所となった。

ティソも常連客の一人だった。

1864年11月、イギリスのラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)は、母親に宛てた手紙の中で、この店を訪れた際の出来事を記している。

それによると、店にあった日本の衣装は、フランス人画家ティソがすっかり買い集めてしまっていたという。

ロセッティ自身も日本の衣装に興味を持っていたようだが、ティソに先を越されてしまったらしい。

1867年パリ万博で日本の展示が大きな注目を集めるよりも前から、ティソは日本の美術工芸品に魅せられていたのである。

そして、1867年パリ万博に参加するためフランスを訪れた一人の日本人少年が、翌年、ティソと意外な接点を持つことになる。

1867年パリ万博にやって来た徳川昭武

1867年パリ万博には、日本から江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩などが参加した。

1867年パリ万博日本展示ブースの再現

そして江戸幕府の代表として派遣されたのが、最後の将軍・徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(1853–1910)だった。

昭武は当時、まだ14歳ほどの少年である。

1867年パリ万博に行った徳川昭武(中央)一行。
後列左端が渋沢栄一

徳川昭武(1867年、パリにて撮影)
撮影:アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディスデリ
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

将軍の名代としてパリ万博に参加した昭武は、万博後もヨーロッパに滞在し、各国を訪問するとともに、フランスで学問や語学、さまざまな技芸を学ぶことになった。

そして翌1868年、昭武の絵画教師となったのが、ほかならぬティソだったのである。

ティソは1868年の春から秋にかけて、昭武に絵を教えたとされている。

日本の衣装や工芸品を熱心に収集し、日本趣味の作品を繰り返し描いていたフランス人画家が、今度は日本からやって来た将軍の弟に絵を教えることになった。

なんとも興味深い巡り合わせではないだろうか。

ティソが昭武の教師に選ばれた理由について、フランス国立美術史研究所(INHA)は、ティソが日本美術の収集家として知られていたことや、昭武の滞在先とティソの住居が近かったことなどを、可能性として指摘している。

いずれにしても、ティソの日本への強い関心も、昭武との交流につながったのではないかと思われる。

ティソが描いた徳川昭武の肖像画

そして、ティソと昭武の交流を示す、重要な作品が残っている。

ティソが1868年に描いた《徳川昭武肖像》である。

この作品は、現在、水戸の徳川ミュージアムに所蔵されている。

興味深いのは、西洋の画家が描いた肖像画でありながら、日本の掛軸の形式に仕立てられていることだ。

徳川ミュージアムの収蔵品データベースによれば、この肖像画は1868年、昭武に贈られたものである。

また、Image Archivesの解説によれば、ティソは昭武に週3回ほど絵画指導を行っていたという。

日本の美術工芸品を収集し、日本趣味の作品を描いていたティソが、日本から来た昭武の肖像を描いた。

そして、その作品が日本に持ち帰られ、現在も水戸に所蔵されている。

19世紀の日仏文化交流を物語る興味深い作品といえるだろう。

渋沢栄一はティソに会ったか

ところで、1867年パリ万博で徳川昭武に同行していた人物といえば、渋沢栄一(1840–1931)である。

渋沢栄一については、著書やこのブログでも何度かご紹介してきた。

渋沢栄一

渋沢は昭武の随員としてパリ万博を訪れ、昭武がパリで留学生活を始めてからも、身近で庶務や会計などを担当していた。

つまり、ティソが昭武に絵を教えていた1868年、渋沢もまたパリに滞在し、昭武の留学生活を支えていたのである。

では、はたして渋沢栄一は、ティソに会ったことがあったのだろうか。

残念ながら、渋沢とティソが直接会ったことを示す渋沢の日記等の記述は、今のところ確認できていない。

しかし、昭武の身近に仕えていた渋沢が、上記資料によると週3回、昭武に絵画を教えていたとされるティソと顔を合わせる機会があったとしても、不思議ではないだろう。

もし二人が実際に会っていたとすれば、後に日本の近代経済を築くことになる渋沢栄一と、ジャポニスムの画家ティソが、幕末のパリで言葉を交わしていたことになる。

そんな光景を想像してみるのも、万博の歴史をたどる楽しみの一つである。

そして1869年、《日本の工芸品を眺める娘たち》へ

ここで、今回のシンシナティ美術館展の作品に戻りたい。

ティソの《日本の工芸品を眺める娘たち》は1869年の作品である。

昭武の絵画教師を務め、その肖像画を描いた翌年のことだ。

この作品は、1869年のパリのサロンに出品された、日本趣味を題材とする3点の関連作品の一つとされている。

3点にはそれぞれ異なる日本や東洋の工芸品が描かれており、今回のシンシナティ美術館所蔵作品では、二人の女性が工芸品を眺めているところが描かれている。

1864年にはすでに日本の衣装を買い集めて絵を描いていたティソが、1867年パリ万博の翌年に昭武の絵画教師となり、その翌年に今回の作品を制作したという時系列は、実に興味深い。

そして、ティソが描いた日本趣味の作品が、150年以上の時を経て、今、日本の美術館で公開されているのである。

上野の森美術館で見た一枚の絵から、1858年の通商条約、1867年パリ万博、徳川昭武、渋沢栄一へと思いが広がっていった。

こうした思いがけない歴史のつながりを発見できることも、万博研究の楽しみの一つなのである。

 

 

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