上野の森美術館「シンシナティ美術館展」へ
現在、東京・上野の森美術館で「シンシナティ美術館展 ~アメリカに渡ったヨーロッパの至宝~」が開催されている。

シンシナティ美術館展 サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

シンシナティ美術館展 サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

シンシナティ美術館展 サイン
photo©️Kyushima Nobuaki
開催期間は、2026年10月10日ー2027年1月10日。
アメリカ・オハイオ州のシンシナティ美術館が所蔵するヨーロッパ美術の名品84点が来日し、コロー、クールベ、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ、モディリアーニ、マリー・ローランサンなど万博とも関わりのある画家たちの作品も展示されている。
19世紀から20世紀にかけての美術の流れをたどることができる展覧会である。
初日に行ってみた。
初日であるにもかかわらず、予想に反してそこまで混んではいなかった。
素晴らしい作品が軒並み出品されており、これは近年開催された美術展の中でも筆者がおすすめしたい展覧会であった。
何点かは写真撮影も許可されている。

ポール・ゴーギャン《マハナ・マア》
photo©️Kyushima Nobuaki

モーリス・ユトリロ《シャペル大通りの赤い壁》
photo©️Kyushima Nobuaki

ラウル・デュフィ《「セーヌ河口、ル・アーヴル」のための習作》
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ジャン・メッツァンジェ《静物》
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フェルディナント・ホドラー《聖なる時間》
photo©️Kyushima Nobuaki

マリー・ローランサン《ピアノの前の女性たち》
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なかでも注目されるのは、ゴッホ最晩年の作品《ポプラ林の中の二人》(1890年)だろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ポプラ林の中の二人》
photo©️Kyushima Nobuaki
しかし、「万博」という視点からこの展覧会を見てみると、もう一人、見逃せない画家がいる。
ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme、1824–1904)である。
現在の日本では、それほど広く知られているとは言い難いジェロームだが、19世紀フランスのアカデミズムを代表する画家であり、当時の美術界では絶大な名声を誇っていた。
そして、その名声を国際的に確立するうえで重要な役割を果たしたのが、万博だったのである。
筆者は、ジェロームが万博で活躍した画家だった、ということから以前から注目していた。
そういう目で見ると、ジェロームの作品はなかなか魅力的なものばかりだと思えてくるのである。
1873年ウィーン万博に出品された《奴隷市場》
今回展示されているジェロームの作品は《奴隷市場》(1871年、写真撮影不可)。
中東の奴隷市場を題材とした、いわゆるオリエンタリズム絵画である。
ジェロームは、古代ギリシャ・ローマの歴史や、中東・北アフリカの風俗を、写真を思わせるほど精緻な筆致で描いたことで知られている。
その作品はヨーロッパのみならず、アメリカでも大変な人気を博した。
ところで、今回の展覧会図録に収録された千足伸行氏の論文によると、この《奴隷市場》は、1873年ウィーン万博に出品された作品だという。
これは万博研究の立場からすると、見逃せない事実である。
1873年ウィーン万博は、オーストリア=ハンガリー帝国が開催した大規模な万博で、日本が明治政府として初めて正式参加した万博でもあった。

1873年ウィーン万博会場
日本からは名古屋城の金鯱をはじめ、陶磁器、漆器、工芸品などが出品され、日本文化を世界に紹介する重要な機会となった。

ウィーン万博の日本展示風景。左に名古屋城の金の鯱、右に有田焼の大花瓶が認められる。
ところが、日本への帰途、ニール号に積まれていた出品物の一部が、同船の沈没によって失われてしまった。
この話については、
でご紹介した。
そして、その同じ万博に、フランスを代表する画家ジェロームの《奴隷市場》も出品されていたのである。
150年以上の時を経て、アメリカの美術館に収蔵されているその作品が、今度は日本の上野にやってきた。
万博の歴史を追いかけていると、こうした思いがけない作品との再会がある。
1855年パリ万博での受賞
じつは、ジェロームと万博の関係は、1873年ウィーン万博よりもさらに古い。
パリで初めて開催された1855年パリ万博にまでさかのぼる。
この万博は、フランスで初めて開催された本格的な万博であり、産業製品だけでなく、美術作品の大規模な展示が行われたことでも知られている。
ジェロームは《アウグストゥスの時代、キリストの誕生》など3点を出品し、二等メダルを受賞した。
当時、ジェロームはまだ30歳ほどであった。
すでにサロンで一定の評価を得ていたとはいえ、万博での受賞は、その名声を国際的に広める大きな機会となった。
1867年パリ万博でグランプリ
そして、ジェロームの万博における最大の栄誉が、1867年パリ万博である。
この万博は、ナポレオン3世の第二帝政下で開催され、日本からも江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩などが参加したことで知られている。
『徳川昭武滞欧記録第二』によると、日本からは《北斎漫画》14冊なども出品されていた。
この万博は、日本の美術や工芸品がヨーロッパで広く紹介される重要な機会となったのである。

1867年パリ万博の会場「シャン・ド・マルス宮」
ジェロームは、この万博の美術部門に13点もの絵画を出品した。
そのなかには《仮面舞踏会の後の決闘》《カエサルの死》など、現在でも代表作として知られる作品が含まれていた。
そして、絵画部門で最高賞にあたるグランプリを受賞したのである。
1867年パリ万博では、絵画・素描部門のグランプリを8人の画家が受賞した。
そのうちフランス人は、ジェローム、アレクサンドル・カバネル、エルネスト・メソニエ、テオドール・ルソーの4人だった。
ジェロームは、まさにフランス美術界の頂点に立つ画家の一人だった。
さらに1878年パリ万博では絵画や彫刻を出品し、審査員も務めた。
1889年パリ万博でも出品審査に関わるなど、ジェロームは画家としてだけでなく、フランス美術界を代表する重鎮として、万博に深く関与し続けたのである。

1878年パリ万博 トロカデロ宮

エッフェル塔(1889年パリ万博)
Eiffel Tower (1889 Exposition Universelle Paris)
万博は、ジェロームの画家としての名声を築いた重要な舞台だったのである。
ジェロームは1855年パリ万博で高い評価を受け、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章。1867年パリ万博では名誉賞を獲得し、同勲章のオフィシエに昇級した。
さらに1878年にはコマンドゥールに昇級するなど、当時のフランス美術界を代表する画家として活躍したのである。
「印象派の敵」ジェローム
ところが、このジェロームには、もう一つの顔があった。
印象派を激しく敵視した画家だったのである。
ジェロームは、正確なデッサンと緻密な描写、完成度の高い画面を重視するアカデミズムの中心人物だった。
その彼にとって、筆触を大胆に残し、光や色彩の瞬間的な印象を描こうとする印象派の絵画は、到底受け入れられるものではなかった。
1884年、パリのエコール・デ・ボザールでマネの回顧展が開催される際にも、ジェロームは反対した。
さらに1894年には、印象派の重要な収集家だったギュスターヴ・カイユボットのコレクションが国家に遺贈されることに強く反対している。
カイユボットは、モネ、ルノワール、ピサロ、セザンヌなどの作品を収集し、それらをフランス国家に遺贈することを希望していた。
しかし、ジェロームをはじめとする保守的な美術界の人々は、印象派の作品が国家の美術館に収蔵されることを認めようとしなかった。
ジェロームは、国家がそのような作品を受け入れることを、芸術の堕落であるかのように非難したという。
現在では考えられない話だが、当時のフランス美術界では、印象派はまだ必ずしも正統な評価を得ていたわけではなかったのである。
1900年パリ万博での発言とされる逸話
そして、ジェロームの印象派に対する敵意を象徴する有名なエピソードが、1900年パリ万博に残されている。

1900年パリ万博「ビネ門」
Porte Bine, 1900 Paris Exposition
1900年パリ万博では、過去100年間のフランス美術を振り返る大規模な回顧展示が行われた。
会場となったグラン・パレには、アカデミズムの巨匠たちの作品だけでなく、印象派の画家たちの作品も展示された。

グラン・パレ
photo©️Kyushima Nobuaki
モネ、ルノワール、ピサロ、セザンヌらが、フランス美術の歴史を代表する画家として紹介されることになったのである。
ところが、これに激しく反発したのがジェロームだった。
伝えられるところによれば、万博の美術展示を視察していたフランス大統領エミール・ルーベが印象派の展示室に入ろうとした際、ジェロームはその前に立ちはだかり、こう言ったという。
原文では、
という言葉として伝えられている。
もっとも、この発言は後世の文献で広く紹介されているものの、当日の新聞記事などによる直接的な裏付けは確認されておらず、実際にこの言葉どおりの発言があったかどうかは不明である。
しかし、ジェロームが印象派の国家的な承認に強く反対していたことは確かであり、この逸話は当時の美術界の対立をよく象徴している。
1855年、1867年、1878年と、万博で数々の栄誉を受けてきたジェローム。
その彼が、1900年パリ万博では、かつて異端視されていた印象派がフランス美術の代表として紹介されることに、強い拒否反応を示したのである。
ちなみに、ジェロームは1900年パリ万博で、絵画・下絵・素描部門(Classe 7)の国際審査委員長を務めていた。
これは当時の万博公式報告書にも明記されている。
さらに、この万博の「フランス美術100年展」には、ジェローム自身の絵画《L’Innocence》と彫刻《Le Rétiaire》《Le Mirmillon》も出品されていた。
つまり、ジェロームは万博の美術部門で審査委員長を務める一方、自身の作品も19世紀フランス美術を代表するものとして展示されていたのである。
その彼が、同じ万博で紹介された印象派の作品を「フランス美術の恥辱」と呼んだと伝えられている。
なんとも皮肉な話ではないだろうか。
美術史の評価は逆転した
ジェロームが1900年パリ万博で印象派を批判したとされるころ、すでに美術界の潮流は大きく変わり始めていた。
1874年に第1回印象派展が開催されてから四半世紀以上が過ぎ、モネやルノワールの評価は次第に高まっていた。
その一方で、ジェロームが体現していたアカデミズムの美術は、20世紀に入ると急速に時代遅れとみなされるようになる。
やがて美術史の主役は、印象派、ポスト印象派、モダニズムへと移っていった。
ところで、今回の展覧会図録によると、ジェロームの教え子には、トマス・エイキンズ(1844–1916)、メアリー・カサット(1844–1926)、フェルナン・レジェ(1881–1955)といった画家たちがいるという。
じつは、日本人にもジェロームの弟子がいた。
山本芳翠(1850–1906)である。
山本はフランス留学中にジェロームに師事し、帰国後は日本の近代洋画の発展に重要な役割を果たした。
さらに興味深いのは、山本が後に黒田清輝に画家への転身を勧めた人物の一人だったことである。
一方、カサットは印象派を代表する画家となり、レジェはキュビスムを経て、20世紀のモダニズムを代表する画家となった。
しかも、レジェは1925年パリのアール・デコ博覧会で、ル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー館」に180×80cmの直線的な作品《壁画》を出品している。
また、レジェは、例の1937年パリ万博の「独立美術の巨匠たち 1895-1937展」にも27点もの作品を出品しているのである。

1925年「アール・デコ博」
「エスプリ・ヌーヴォー館」
Expo 1925 Arts Décoratifs
L’Esprit Nouveau Pavilion
そのレジェの作品《夕日に照らされる木々》(1952年)も今回の展覧会に出品されている。
印象派を激しく敵視したジェロームの教え子が、印象派やモダニズムの担い手となり、その一人が新しい時代の博覧会で活躍していたのである。
万博を通して眺めると、美術史の意外なつながりが見えてくるのである。
ジェロームは1904年に亡くなる。
その後、彼の作品は長い間、美術史の中心から遠ざけられることになった。
しかし、20世紀後半になると、19世紀アカデミズムの再評価が進み、ジェロームの作品も再び注目されるようになる。
今日では、その驚異的な描写技術に加え、オリエンタリズムや視覚文化の歴史を考えるうえでも、重要な画家と位置づけられている。
美術史の評価というものは、時代とともに大きく変化する。
万博から見えてくる美術史
今回のシンシナティ美術館展では、ジェロームの《奴隷市場》とともに、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホらの作品を見ることができる。
かつてジェロームが強く批判した印象派の画家たちは、現在では世界中の美術館で絶大な人気を誇っている。
その一方で、19世紀の万博で最高の栄誉を受けたジェロームの名を知る人は、今でも必ずしも多くないかもしれない。
しかし、1873年ウィーン万博に出品された《奴隷市場》を目の前にすると、当時の美術界におけるジェロームの存在感を、あらためて考えさせられる。
そして、1900年パリ万博で印象派を激しく非難したと伝えられるエピソードを思い起こすと、万博という舞台が、単なる美術作品の展示場ではなく、美術の価値観が衝突する場所でもあったことがわかる。
19世紀の万博で賞賛された美術と、その後の美術史で主役となった美術。
今回のシンシナティ美術館展は、その両方を一度に眺めることのできる、興味深い展覧会なのである。

