「発見の殿堂」(Palais de la Découverte)
<156>でご紹介した、セーヌ川左岸にたたずむオシップ・ザッキンの『メッセンジャー』からアンバリッド橋を過ぎて、さらにセーヌ川を左手に見ながら左岸を東へ進むと、セーヌ川の向こうに「グラン・パレ」が見える。
そして「グラン・パレ」の鉄とガラスの大屋根の左側にも独特な形の屋根の建造物がある。

アンバリッド橋の向こうにグラン・パレが見える。
グラン・パレの左手には1937年パリ万博時につくられた「発見の殿堂」(Palais de la Découverte)が見える。
photo©️Kyushima Nobuaki
これは「グラン・パレ」の一部を活用した「発見の殿堂」(Palais de la Découverte)という施設で、現在は科学博物館になっている。
この「発見の殿堂」は、もともと1937年パリ万博の際に物理学者ジャン・バティスト・ペラン(1870-1942)によって設立された由緒ある万博関連施設であり、科学の体験展示施設となっている。
このジャン・バティスト・ペランは物質が分子からできていることを実験的に証明した科学者であり、1926年、ノーベル物理学賞を受賞した。
さて、このアンバリッド橋をすぎて、その次を左に折れてアレクサンドル3世橋をわたる。

アレクサンドル3世橋。左にグラン・パレ、右奥にプティ・パレがある
photo©️Kyushima Nobuaki

バトー・ムーシュの船上からみたアレクサンドル3世橋とグラン・パレ
photo©️Kyushima Nobuaki
渡った先の右にあるのが「プティ・パレ」、左にあるのが「グラン・パレ」である。
両方とも1900年パリ万博の際に建てられたものである。
「ウィンストン・チャーチル通り」と「ニコライ2世通り」
アレクサンドル3世橋を渡ったセーヌ川北側の通りは「ウィンストン・チャーチル通り」と名付けられている。
それを示すように、「プティ・パレ」の手前には彫刻家ジャン・カルドー(Jean Cardot)によるウィンストン・チャーチルの銅像が立っている。

プティ・パレ。手前左の銅像はウィンストン・チャーチルのもの。
photo©️Kyushima Nobuaki

「プティ・パレ」手前のウィンストン・チャーチルの銅像
photo©️Kyushima Nobuaki
これは1998年に建てられたもので、像の足元には、1940年6月4日チャーチルの有名な演説より「We shall never surrender(我々は決して降伏しない)」という一節が刻まれている。
しかし、この「ウィンストン・チャーチル通り」も、1900年パリ万博当時には、アレクサンドル3世橋をフランスに寄贈した最後のロシア皇帝の名をとった「ニコライ2世通り」という名前だった。
さて、この当時新しかった「ニコライ2世通り」に向かう形で建てられたのが「グラン・パレ」と「プティ・パレ」であった。
1900年パリ万博時の「グラン・パレ」とその後
「グラン・パレ」はシャルル・ジロー(Charles Girault)の指揮のもと、アンリ・ドゥグラン(Henri Deglane)、アルベール・ルヴェ(Albert Louvet)、アルベール・トマ(Albert Thomas)の3人の建築家により、1897年から1900年にかけて建設された。

「ウィンストン・チャーチル通り」を隔てて斜め対面から見たグラン・パレ
photo©️Kyushima Nobuakiphoto©️Kyushima Nobuaki

グラン・パレ正面
photo©️Kyushima Nobuaki

グラン・パレ正面
photo©️Kyushima Nobuaki
この「グラン・パレ」、1900年パリ万博時には、フランスの19世紀絵画を回顧する「100年展」ならびに1889年から1900年の美術を展示した美術展「10年展」(”Exposition Décennale des Beaux-Arts De1889 à 1900”)が開催された。
この「10年展」には、オーギュスト・ロダン、シダネル、マルタン、ルオー、ホイッスラー、アレクサンダー・スターリング・カルダー、ミュシャ、パブロ・ピカソ、ヘンリー・ムーアらの作品が展示されていたのである。
また、アンリ・マティスがその巨大装飾に参画したりしている。
2024年に開催されたパリ・オリンピックの機会に改修され、テコンドーとフェンシングの会場になった。
ちなみに、1900年パリ万博の際には第2回近代オリンピックが付属イベントとして開催された。
その後1924年にもパリ・オリンピックは開催されているので最初から124年後、100年ぶりの開催となったわけである。
1900年パリ万博時の「プティ・パレ」とその後
「プティ・パレ」は「グラン・パレ」の設計総監督であるシャルル・ジロー(Charles Girault)による設計である。
1900年パリ万博では、「プティ・パレ」では、地方の図書館、博物館、教会から集められたフランス美術の歴史的遺品を収容していた。

プティ・パレ
photo©️Kyushima Nobuaki

プティ・パレ正面
photo©️Kyushima Nobuaki
そして、その後、1937年パリ万博では、「独立美術の巨匠たち1895-1937展」、通称「巨匠展」の会場になっている。
この「巨匠展」は、「プティ・パレ」館長のエスコリエが中心となった学芸員と美術評論家らによって組織され、19世紀末からの約50年間に活動したフランス国内外の画家・彫刻家、総勢117名、1,576点が展示されたものである。
展示された作家にはアリスティド・マイヨール、マティス、ピカソ、ピエール・ボナールなど、当時現存する作家たちが数多く含まれた。
ピカソは『アヴィニョンの娘たち』を、アンリ・マティスは『夢』『赤いキュロットのオダリスク』などを出展したのであった。(<34> ピカソ『アヴィニョンの娘たち』は万博に出展されていた!? 参照)
このように1900年パリ万博を契機に設立された2つの美術館。
現代の万博の多くの仮設の会場と違って、とても重厚で立派な、圧倒されるようなデザインと規模の建築物である。
その結果、125年経った現在でも何度かの修復を経て、立派にパリの文化施設の中心の一つとしてその機能を果たしているのである。