<249>フォンタネージ展と万博 ー《四月》から日本へつながる風景

1873 Vienna
フォンタネージ《四月》(1873年)、トリノ市立近現代美術館蔵 photo©️Kyushima Nobuaki

三菱一号館美術館「フォンタネージ展」へ

現在、東京・丸の内の三菱一号館美術館で、日本イタリア国交樹立160周年・フォンタネージ来日150周年を記念した「フォンタネージ―イタリアの光・心の風景」が開催されている。

フォンタネージ展入り口付近の様子(三菱一号館美術館)
photo©️Kyushima Nobuaki

フォンタネージ展サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

会期は2026年10月17日(土)から2027年1月24日(日)まで。

トリノ市立近現代美術館とトリノ博物館財団の協力のもと、初期から晩年までのフォンタネージの作品に、日本の教え子や後世のイタリアの画家たちの作品を加えた約200点を紹介する展覧会である。

アントニオ・フォンタネージ(1818–1882)といえば、明治初期に来日し、日本の画家たちに西洋画を教えた人物として知られる。

ただ、その名前に比べると、本人の作品を見る機会はそれほど多くない。

フォンタネージ《自画像》1862年、トリノ市近現代美術館
photo©️Kyushima Nobuaki

フォンタネージ肖像写真
photo©️Kyushima Nobuaki

先週、その風景画の世界を訪ねてみた。

フォンタネージは、現在のイタリア北部、レッジョ・エミリアに生まれる。

故郷で絵を学んだのち、スイスのジュネーヴを拠点に活動し、フランスやイギリスの絵画にも触れながら、風景画家としての道を歩んだ。その後はトリノのアルベルティーナ美術学校で風景画を教え、1876年、日本へ招かれる。

今回の展覧会では、日本での教育者としての顔に加え、ヨーロッパでの画業をたどることができる。そして、今回も万博につながる作品があった。

フォンタネージ展展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

フォンタネージ展展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

今回のポスターのビジュアルになっている作品
フォンタネージ《朝》1855-58年 トリノ市立近現代美術館
photo©️Kyushima Nobuaki

ウィーン万博に出品された《四月》

フォンタネージ《四月》(1873年)、トリノ市立近現代美術館蔵
photo©️Kyushima Nobuaki

大きな空を背に、枝を伸ばす一本の木。雲の間から光が差し、地上には人や家畜が小さく描かれている。

《四月》は、高さ約1.7メートル、幅約2.5メートルの大作である。

風景の中にいる人々よりも、空や木々の存在が圧倒的に大きい。

四月という題から、花の咲く明るい春を想像するかもしれない。

しかし、画面の色は落ち着いていて、木の枝にも葉は少ない。まだ寒さの残る大地に、ようやく春の光が届き始めたようにも見える。

この作品は、1873年ウィーン万博に出品されている。

1873年ウィーン万博産業宮

日本が明治政府として初めて正式参加し、名古屋城の金鯱などを送った、あの万博である。

図録によると、この絵は1870年に《朝》という題で発表され、トリノ市の美術館のために購入されることになっていた。
ところが、フォンタネージは収蔵前に手を入れることを希望し、約3年かけて構図を大きく変更する。

本人が友人に送った手紙では、もとの構図にあった過度に演劇的な要素を取り除き、木々や灰色の雲、家畜の群れの存在を強調したと説明しているという。

そうして《四月》と題し、1873年ウィーン万博へ出品したのち、ようやく美術館に収められた。

すでに購入が決まった絵を描き直してまで、画家は何を表したかったのだろう。
そんな経緯を考えていると、目の前の静かな風景にも、制作の試行錯誤が感じられる。

《四月》のための習作 1872年頃 トリノ市立近現代美術館
photo©️Kyushima Nobuaki

万博で学んだフォンタネージ

作品を万博へ送り出したフォンタネージだが、本人もまた、万博から刺激を受けていた。

1855年パリ万博を訪れ、バルビゾン派の画家コンスタン・トロワイヨン(1810–1865)と出会い、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796–1875)らの作品に直接触れる機会を得たのである。

自然を観察し、身近な風景を描く彼らの試みは、フォンタネージに大きな刺激を与えた。

その後に親交を深めた風景画家フランソワ=オーギュスト・ラヴィエ(1814–1895)からも影響を受け、自然の姿に画家自身の感情を重ねる、抒情的な風景画を追求していく。

《四月》の空や光も、単に目の前の景色を写したものとは違って見える。
風景を描きながら、その場の空気や、見る人の心に残る何かを表そうとしているようだ。

万博は作品の発表の場であると同時に、画家が新しい表現に出会う場所でもあった。

その風景は日本へ ー 浅井忠らを育てる

フォンタネージは1876年に来日し、開校した工部美術学校で西洋画を教えた。

滞在は約2年と短かったが、浅井忠(1856–1907)、小山正太郎(1857–1916)、松岡壽(1862–1944)ら、日本の洋画を担う画家たちを育てている。

今回、展示されている浅井の《花畠》《海上の春雨》を見ると、師の風景画とともに、日本の風土の中で育っていった洋画にも目が向く。

浅井忠《花畠》 1904年
photo©️Kyushima Nobuaki

同じ部屋には、黒田清輝(1866–1924)の《つつじ》や藤島武二(1867–1943)の《風景(山とトロッコ)》もある。

黒田はフランスでコランに学び、藤島はフォンタネージの教え子である松岡壽らに学んだ。

それぞれの画家が自然をどう見て、光や色をどう捉えたか、見比べるのも面白い。

黒田清輝《つつじ》1920年
photo©️Kyushima Nobuaki

藤島武二《風景(山とトロッコ)》
photo©️Kyushima Nobuaki

黒田といえば、1900年パリ万博に《湖畔》、《智・感・情》(出品時の題名は《女性習作》)などを出品した画家でもある。

藤島も同じ1900年パリ万博に《池畔納涼》を出品している。フォンタネージから日本の洋画へ視線を移しても、また万博との接点が現れる。

黒田清輝《湖畔》、東京国立博物館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

黒田清輝《智・感・情》、東京国立博物館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

藤島武二《池畔納涼》、東京藝術大学大学美術館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

(上記3点は本展の展示作品ではなく、1900年パリ万博への出品作。)

浅井忠、林忠正、そして夏目漱石

浅井も、1900年パリ万博へ足を運んでいる。

このとき浅井は、フランスで絵を学ぶだけでなく、日本側事務局の「事務嘱託員」として万博の仕事にも携わっていた。

事務官長を務めたのは、日本美術をヨーロッパに紹介した美術商・林忠正(1853–1906)である。

林忠正肖像、撮影者不詳。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

浅井忠は万博で絵画に加え、アール・ヌーヴォーなどのデザインにも刺激を受けた。

帰国後は京都高等工芸学校で教え、工芸の図案にも取り組むことになる。

さらに、万博開催中のパリで浅井を訪ねたのが夏目漱石(1867–1916)だった。

1900年10月、ロンドン留学へ向かう途中の漱石は、パリに約一週間滞在し、万博を見学している。

浅井を訪ねたものの不在で、翌日あらためて足を運んだという。

夏目漱石肖像、小川一真撮影、1912年。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

交流はその後も続き、1902年には、帰国を控えた浅井がロンドンの漱石の下宿に宿泊する。

浅井はのちに『吾輩は猫である』中・下編の挿絵を手がけ、『三四郎』に登場する亡き画家・深見のモデルともいわれている。

浅井忠『吾輩は猫である』挿絵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

漱石の小説とのつながりを知ると、この画家が少し身近に感じられる。

万博で学んだフォンタネージが日本で画家を育て、その教え子もまた万博へ向かう。

さらに、そこには林忠正や夏目漱石の姿もあった。

《四月》から始まった話が、いつの間にか日本の美術や誰もが知る文学へつながっている。

今回も、一枚の絵を万博という視点から眺めることで、思いがけない広がりが見えてきた。


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