<253>マイヨール《河》と万博 ー今にも滑り落ちそうな女性像をたどって

1889 Paris Expo
アリスティッド・マイヨール《河》1938年、ブロンズ、島根県立美術館蔵。 photo©️Kyushima Nobuaki

ホワイエで出会う二つの彫刻

島根県立美術館を訪れると、ホワイエで二つの彫刻に足が止まる。

島根県立美術館
photo©️Kyushima Nobuaki

オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840–1917)の《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》と、アリスティッド・マイヨール(Aristide Maillol、1861–1944)の《河》である。

片方は、岩場に腰を下ろし、片腕を大きく伸ばす文豪の姿。
もう片方は、身体をねじり、今にも台座から滑り落ちそうな女性像だ。

この二人の彫刻家も、万博と深いつながりがある。

ロダンは1900年パリ万博に合わせ、アルマ広場にパビリオンを建てて大規模な個展を開いた。
《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》も、島根の像とは構成の異なるヴァージョンが、石膏像で展示されている。

オーギュスト・ロダン《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》1897年、ブロンズ、島根県立美術館蔵。
photo©️Kyushima Nobuaki

一方、マイヨールは1937年パリ万博に関連してプティ・パレで開催された「独立美術の巨匠展」で、その作品がまとまって28点紹介された。

ロダンのユゴー像については次回に譲り、今回は、思わず「落ちてしまいそうだ」と感じる、マイヨールの《河》から話を始めたい。

1987年、ニューヨークで見た女性像

《河》の女性は横たわっているのだが、身体は大きくねじれ、片腕を上げ、頭ともう一方の腕は台座の外へ張り出している。

どこかで見たことがある。

そう思って記憶をたどると、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭にある彫刻だった。

筆者が初めてニューヨークのMoMAを訪れた1987年(今から約40年前のことになる!)、この女性像を見て「これは何だ?」と驚いたことを覚えている。
台座から今にも落ちそうなその姿は、一度見たら忘れられないものだ。

調べてみると、MoMAの《河》は、1938~39年に制作を始め、1943年に完成した原型に基づく、1948年鋳造の鉛製の像である。
高さ136.5センチ、幅228.6センチ、奥行167.7センチ。

一方、島根の作品はブロンズ製で、高さ124センチ、幅236センチ、奥行145センチ。
ほぼ同じサイズの作品である。

MoMAの公式資料でも、台の縁から身を乗り出すような展示が紹介されている。

それから40年近くたった今、宍道湖を望む島根県立美術館で、同じ作品の別の鋳造像に再会することになった。

アリスティッド・マイヨール《河》1938年、ブロンズ、島根県立美術館蔵。
photo©️Kyushima Nobuaki

なぜ、こんなに落ちそうなのか

「あいかわらず落ちそうな像だなあ」と思いながら、周囲を回ってみる。

角度を変えると、身体の傾きや手の動きが違って見える。横になっているというより、何かに押し流され、姿勢を保とうとしているようにも感じられる。

じつは、この不安定な姿には、作品の成り立ちが関係している。

1938年、マイヨールは、反戦の立場で知られるフランスの作家アンリ・バルビュス(Henri Barbusse、1873–1935)の記念碑の注文を受けた。
そのために構想したのが、背中を刺されて倒れる女性の姿だったという。
戦争の悲惨さを表す像である。

しかし、計画は資金不足で実現しなかった。

島根県立美術館の解説によると、原型は完成したものの鋳造できず、1943年にマイヨール自身が《河》と名付けた。

倒れる女性の姿が、流れる水を表す彫刻へと変わったのである。

フランス語の題名は《La Rivière》、英語では《The River》。
島根県立美術館では《河》という邦題が用いられている。

題名を知ると、身体の大きなうねりが水の流れに見えてくる。
一方、その出発点を知ると、台座から落ちそうな姿に、切迫したものも感じられる。

MoMAの解説も、この作品の大胆な不安定さと身体のねじれは、静けさや調和を求めたマイヨールの彫刻の中では珍しいと指摘している。

角度を変えて見た《河》
台座の外へ張り出した頭と腕が、不安定な姿を際立たせる。
photo©️Kyushima Nobuaki

横たわる裸婦の長い歴史

さて、じつは女性が裸で横たわる姿は、西洋美術では繰り返し取り上げられてきた主題である。

実際、世界の美術館でも、この主題をたどる企画が行われている。

スペインのプラド美術館では、2021年の「神話的情熱」展で「ヴィーナスと横たわる女性裸体」という章を設け、その表現の伝統を紹介した。

また、オランダのベールデン・アーン・ゼー美術館でも、2026年に「横たわる人物像(Reclining Figures)」展が開かれた。
同展に関連する学芸員の解説は、ティツィアーノやマネの絵画、カノーヴァの彫刻などとともに、マイヨールの《河》を、この伝統を示す代表作に挙げている。

その長い歴史を、いくつかの作品で見てみよう。

ジョルジョーネの《眠れるヴィーナス》、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》、そしてベラスケスの《鏡の前のヴィーナス》である。

ジョルジョーネ《眠れるヴィーナス》1510年頃、ドレスデン国立古典絵画館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》1538年、ウフィツィ美術館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

ディエゴ・ベラスケス《鏡の前のヴィーナス(ロークビーのヴィーナス)》1647~1651年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

ディエゴ・ベラスケス《鏡の前のヴィーナス(ロークビーのヴィーナス)》1647~1651年、油彩・カンヴァス、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵。
photo©️Kyushima Nobuaki 2025年3月撮影

目を閉じて眠る姿、こちらを見つめる姿、背を向けて鏡に顔を映す姿。同じ横たわる裸婦でも、鑑賞者との関係はずいぶん違う。

繰り返し描かれてきた横たわる身体が、《河》では台座からはみ出し、落下を予感させるほどの動きを帯びている。その違いを見比べるのは面白い。

万博に出品された「横たわる裸婦」の系図

この系譜には、万博に出品された作品もある。

まず挙げたいのが、ゴヤの《裸のマハ》と《着衣のマハ》である。

ともにプラド美術館所蔵。
同じように両腕を頭の後ろへ回して横たわり、こちらを見つめる女性を、一方では裸で、もう一方では着衣で描いている。

この二作品は、1964/65年ニューヨーク万博のスペイン館に、最初の会期に当たる1964年に出品された。

フランシスコ・デ・ゴヤ《裸のマハ》1795~1800年頃、プラド美術館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

フランシスコ・デ・ゴヤ《着衣のマハ》1800~1807年頃、プラド美術館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

プラドの名品が、そろって海を渡り、ニューヨーク万博のスペイン館に並んだのである。

筆者がMoMAで《河》を見たのは、その万博から20年以上後のことだが、横たわる女性像をたどっているうちに、ここでもニューヨークにつながった。

パリ万博に出品された、二つの対照的な裸婦

そして、カバネル《ヴィーナスの誕生》と、マネ《オランピア》である。

どちらも1863年に描かれた作品だ。

カバネルのヴィーナスは、海上で身体を伸ばし、腕を頭の上へ回している。
滑らかな肌と理想化された姿は、当時のアカデミックな美の典型の一つである。

1863年のサロンで評判となり、ナポレオン3世が購入したこの作品は、1867年パリ万博にも出品された。
そして、カバネル自身も、同万博でグランプリを受賞している。

この作品は、筆者も仕事として携わった、2004年から2005年にかけて東京、大阪、名古屋で開催された「世紀の祭典 万国博覧会の美術」展で「来日」している。

アレクサンドル・カバネル《ヴィーナスの誕生》1863年、オルセー美術館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

一方、《オランピア》は、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》などを参照しながら、同時代のパリの女性を描いた作品である。

寝台に横たわる女性は、こちらをまっすぐ見返している。
理想化された神話の女神とは異なり、娼婦を描いたともいわれるこの作品は、1865年のサロンで激しい批判を浴びた。

その《オランピア》も、マネの死後、1889年パリ万博に展示されている。

このとき、モネが《オランピア》がアメリカに売却されるという話を聞き、2万フランを目標にして募金活動をして 海外流出を防いだという逸話については、<107>でご紹介した。

エドゥアール・マネ《オランピア》1863年、オルセー美術館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

エドゥアール・マネ《オランピア》1863年、油彩・カンヴァス、パリ・オルセー美術館蔵。1889年パリ万博出品。
photo©️Kyushima Nobuaki 2025年3月撮影

同じ年に描かれた、二つの対照的な裸婦像。それぞれが異なる時期のパリ万博で紹介されたことにも、美術の評価が移り変わる時代が見えてくる。

クールベの《おうむと女》は1970年大阪万博へ

横たわる裸婦を描いた作品は、1970年大阪万博にも出品されている。

ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet、1819–1877)の《女とオウム》(1866年)である。

ギュスターヴ・クールベ《女とオウム》1866年、油彩・カンヴァス、メトロポリタン美術館蔵。
画像:The Metropolitan Museum of Art(Public Domain)

寝台に横たわる女性が、片腕を上げ、手にとまるオウムを見つめている。
背後へ投げ出された髪や、無造作に置かれた衣服が、神話の女神とは異なる、生身の女性の存在を感じさせる。

体勢的には、これがもっとも《河》に近い。

《オランピア》がサロンで批判された翌年の1866年、この作品はサロンに入選した。
批評家の評価は分かれたが、マネやセザンヌら若い世代の画家たちの関心を引いた作品でもある。

そして約100年後、ニューヨークのメトロポリタン美術館から大阪へ渡り、1970年大阪万博の「万国博美術展」に展示された。

調べてみると、出品番号はIV-231。
当時の図録には《おうむと女》という題名で掲載されている。

横たわる裸婦の歴史をたどると、パリやニューヨークに加え、大阪の万博にも行き着くのである。

東京の夢二展でも、横たわる女性に出会う

この主題は、日本の画家にも受け止められている。

現在、東京国立近代美術館では、

が開催中である。

竹久夢二展 入り口サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

会期は2026年10月23日~2027年1月11日。

竹久夢二(1884–1934)は、「夢二式」と呼ばれる女性像で知られる一方、詩や挿絵、本の装幀、日用品のデザインなど、幅広い分野で活躍した。
この展覧会では、《黒船屋》をはじめ、全国のコレクションから集めた約500点の作品と資料を通して、その多彩な仕事を紹介している。

竹久夢二《黒船屋》
photo©️Kyushima Nobuaki

先日、この展覧会を訪れると、ここでも横たわる女性像に出会った。

夢二の《西海岸の裸婦》(1931~1932年頃)と、《青山河》(1932年)である。

《西海岸の裸婦》は、夢二のアメリカ滞在中に描かれた油彩画だ。女性は両腕を頭の後ろへ回し、身体を伸ばしている。

竹久夢二《西海岸の裸婦》1931-32 夢二郷土美術館
photo©️Kyushima Nobuaki

興味深いのは、一緒に展示されていた夢二のスクラップブックである。

そこには、モディリアーニやスゴンザックらによる、横たわる裸婦や女性像の図版が集められている。(モディリアーニ作品は右ページ上、スゴンザック作品は左ページ中)
展示解説によると、夢二は裸婦像を制作する際、こうした作品図版を参考にしたと考えられるという。

ここで出てくるアメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani、1884–1920)と、フランスの画家アンドレ・デュノワイエ・ド・スゴンザック(André Dunoyer de Segonzac、1884–1974)の作品も、のちに1937年パリ万博の「独立美術の巨匠展」で、マイヨールの作品とともに紹介されている。

モディリアーニ自身も、横たわるヴィーナスの伝統を受け継いだ画家である。

西洋美術の図版を切り抜き、自分の手元に集めていた夢二。

そのページと作品を見比べると、横たわる女性像という主題が、印刷物を通じて国境を越えていく様子がうかがえる。

竹久夢二のスクラップブック「Schacht…」、大正期~昭和初期、金沢湯涌夢二館蔵。モディリアーニらの横たわる裸婦の図版が貼り込まれている。
photo©️Kyushima Nobuaki

もう一点の《青山河》(せいさんが)では、横たわる裸婦の背後に榛名の山並みが広がっている。

展示解説によると、裏面には「山は歩いて来ない。やがて私は帰るだらう。榛名山に寄す」と記されている。
夢二がアメリカから欧州へ発つ直前、世話になった邦人新聞記者・坂井米夫に贈った作品だという。

マイヨールの《河》では身体のうねりが水の流れを思わせ、夢二の《青山河》では、長く伸びる身体が山並みと響き合う。

両者の直接の影響関係を示すものではないが、横たわる女性像が、自然や心情を表す姿にもなることが見えてくる。

竹久夢二《青山河》1932年、油彩・布、竹久夢二伊香保記念館蔵。
photo©️Kyushima Nobuaki

ちなみに夢二は、読売新聞の記者だった頃、1907年東京勧業博覧会を取材し、《博覧会スケッチ》も描いている。
夏目漱石の『虞美人草』にも登場する、あの博覧会である。

1907年東京勧業博覧会会場 
Tokyo Industrial Exhibition Site

マイヨールを通して、パリと大阪がつながる

マイヨール自身の万博との関係にも、もう少し触れておきたい。

冒頭で紹介した1937年パリ万博関連の「独立美術の巨匠展」では、マイヨールはマティス、ボナール、ピカソらとともに作品を紹介された。

ただし、《河》の制作が始まるのは翌1938年なので、この作品が1937年の展覧会に出品されたわけではない。

そこで注目したいのが、《イル・ド・フランス》である。

胸を張って立ち、両腕を後ろへ伸ばして布を持つ女性像だ。
《河》とは姿勢が大きく異なるが、こちらも地名にちなむ題名を与えられている。
イル・ド・フランスとは、パリを中心とする地域の名称である。

この作品は、1937年「独立美術の巨匠展」にブロンズ像が出品されている。
出品番号は31である。

そして1970年大阪万博の「万国博美術展」には、国立西洋美術館所蔵のブロンズ像が出品された。
目録番号はIV-249である。

同じ作品の別の鋳造像が、パリと大阪の万博で紹介されたわけである。

《河》そのものが大阪万博に並んだわけではない。
しかし、同じ作家の作品をたどると、1937年パリ万博と1970年大阪万博がつながるのである。

島根での再会

1987年、ニューヨークで初めてこのインパクトのある作品を見たときは、作者も題名も、その成り立ちも、今ほど意識していなかった。

ただ、今にも落ちそうな女性の姿が、強く記憶に残った。

島根で再会し、調べてみると、その出発点には、戦争の悲惨さを表す構想があり、横たわる裸婦の長い伝統があった。

その伝統をたどる途中には、パリやニューヨークの万博に出品された名画も現れた。

さらに東京の夢二展でも、横たわる女性像と、その創作の手がかりとなったスクラップブックに出会う。

別々に訪れた美術館で見たものが、思いがけずつながっていく。

次回は、もう一つの彫刻、ロダンの《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》から、文豪と万博の関係をたどってみたい。


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