もう一つの彫刻 ーロダン《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》
前回の<253>では、島根県立美術館のホワイエで出会った、マイヨールの《河》を紹介した。

島根県立美術館
photo©️Kyushima Nobuaki
今回は、その近くに展示されている、オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840–1917)の《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》である。

オーギュスト・ロダン《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》1897年、ブロンズ、島根県立美術館蔵。
photo©️Kyushima Nobuaki
岩場に腰を下ろした男性が、片手を頭の近くに置き、もう一方の腕を大きく伸ばしている。
その先の手はやたら大きく見える。
背後には、身体を傾ける女性の姿が見える。
正面から眺めると、伸ばした腕が空間を押し広げるようだ。
周囲を回れば、人物や衣の重なりが見え、角度によって印象が変わる。
モデルとなったのは、『レ・ミゼラブル』や『ノートル=ダム・ド・パリ』などで知られるフランスの文豪、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo、1802–1885)である。

ナダール撮影《ヴィクトル・ユゴー》。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)
彫刻家ロダンと、作家ユゴー。
この二人をたどると、それぞれの万博との関わりが見えてくる。
文豪を、どのような姿で記念するか
ロダンがユゴーの記念碑制作を依頼されたのは、1889年のことである。
当初は、フランスの偉人を顕彰するパンテオンのための計画だった。
しかし、ロダンの構想はそのまま採用されたわけではなく、制作は複数の案へと展開していく。
島根で見る像のユゴーは、正装して直立する文豪ではない。
身体の一部をあらわにし、岩場に座り、何かに耳を傾けながら、周囲の空間に腕を伸ばしている。
背後の女性たちは、創作の霊感を表すミューズである。
ロダンは、文豪の顔や姿を似せるだけでなく、思索し、言葉を生み出す力そのものを表そうとしたように見える。
ユゴーには、作家としてだけでなく、政治に関わり、長い亡命生活を送った人物としての顔もある。
そうした生涯を知ると、この像の身振りにも、単なる静かな思索とは異なる強さを感じる。
1900年パリ万博に合わせて開催されたロダン展
このユゴー像は、1900年パリ万博にもつながっている。
ロダンは万博に合わせ、パリのアルマ広場に自らの作品を展示するパビリオンを建て、大規模な個展を開催した。
万博の公式展示とは別に、自分の仕事をまとまって見せる場を設けたのである。
彫刻だけでなく、素描や写真なども用いながら、ロダンの創作を広く紹介する展覧会だった。

1900年のアルマ館での展示風景。《カレーの市民》を中心に、ロダンの彫刻が並ぶ。ウジェーヌ・ドリュエ撮影。
ベルリン国立美術館群・美術図書館蔵。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)
そこには、《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》も石膏像で展示された。
ただし、島根県立美術館で見る像と、まったく同じ構成ではなかった。
ロダン美術館の解説によると、1900年のアルマ館に展示された石膏像では、ユゴーに伴う女性像は「悲劇のミューズ」のみとなっていた。
島根の像に見られる複数の人物の組み合わせから、構成を変えた姿が展示されたのである。
《バルザック像》もアルマ館のロダン展に
アルマ館には、もう一人の文豪の記念碑も展示された。
《バルザック像》である。
オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac、1799–1850)は、『ゴリオ爺さん』をはじめ、多数の小説からなる「人間喜劇」で知られる作家だ。
ロダンが制作した像は、大きな衣に身体を包み、頭部を強く突き出すような姿をしている。
この斬新な像は、1898年に発表された際、激しい論争を招き、注文主である文芸家協会には受け入れられなかったという。
1970年大阪万博の《バルザック像》
さて、そのロダンの《バルザック像》は、1970年大阪万博の「万国博美術展」にも登場する。
出品目録では、IV-248。所蔵先は、東京の国立西洋美術館と記されている。
ただし、大阪万博に出品されたのは、国立西洋美術館所蔵の習作のブロンズ像であり、1900年のアルマ館に展示された全身の石膏像と同じものではない。

オーギュスト・ロダン《バルザック記念像》1897年原型、1967年鋳造、ブロンズ、ロサンゼルス郡立美術館蔵。1900年のアルマ展に展示された石膏像とは別の鋳造像。
画像:© Museum Associates/LACMA(Public Domainとして公開)
これは、1897年の原型に基づく1961年鋳造のブロンズ像で、1900年のアルマ館に展示された大きな石膏像とは制作段階や大きさが異なるが、部屋着に全身を包んだ、あの印象的な姿を示している。
前回紹介したマイヨールの《イル・ド・フランス》と同様、ロダンの作品をたどっても、パリと大阪の万博がつながる。
しかも1970年大阪万博の出品目録では、ロダンの《バルザック像》がIV-248、マイヨールの《イル・ド・フランス》がIV-249と続いている。
島根のホワイエで出会った二人の彫刻家は、大阪万博の目録でも隣り合っていたのである。
ヴィクトル・ユゴーと1867年パリ万博
一方、彫刻のモデルとなったユゴー自身にも、万博との関わりがある。
1900年から33年前、1867年パリ万博の時である。

1867年パリ万博の会場全景。シャン・ド・マルスに巨大な楕円形の展示館が設けられた。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)
この万博に合わせて刊行された『パリ・ガイド(Paris-Guide)』に、ユゴーは「パリ(Paris)」と題する長文の序文を寄せている。

『パリ・ガイド』第1部「科学・芸術」の扉ページ。1867年パリ万博に合わせ、フランスの著名な作家や芸術家が執筆した。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)

パリ・ガイド』所収、ヴィクトル・ユゴーによる序文の冒頭。第1章「未来(L’Avenir)」は、20世紀に誕生する新たな共同体の構想から始まる。1867年。
画像:Wikimedia Commons(Public Domain)
当時のユゴーは、ナポレオン3世の体制に反対し、フランス北西岸沖にある英国王室属領のガーンジー島で亡命生活を送っていた。
1851年、当時の大統領ルイ=ナポレオンがクーデターを起こすと、ユゴーは抵抗運動に加わり、その後国外へ逃れた。翌年、ルイ=ナポレオンは皇帝ナポレオン3世となる。
ユゴーは1859年の恩赦も拒み、帝政が崩壊する1870年まで亡命を続けた。
では、皇帝が主導する万博に合わせた本に、なぜ反体制派の文豪が文章を書いたのか。
じつは、この『パリ・ガイド』は万博の公式案内書ではなく、民間の出版企画だった。
発案者は、ユゴーの親友で文学者のポール・ムーリス(Paul Meurice、1818–1905)。
著名な作家や芸術家が、それぞれの専門や関心からパリを紹介する本を構想し、出版社のアルベール・ラクロワが刊行を引き受けた。ユゴーへの依頼も、この出版企画から生まれたのである。
執筆陣には、ルーヴル美術館を論じたテオフィル・ゴーティエ、街歩きについて綴ったジョルジュ・サンド、パリの教会を紹介した建築家ヴィオレ=ル=デュク、写真家ナダールらも名を連ねる。
各分野の文化人が、それぞれの視点でパリを描く本だった。ただし、反体制派の寄稿を含む企画には政治的な危険もあり、出版社側は訴訟を恐れていたという。
亡命先から描いた、パリの未来
ユゴーの「パリ」は、名所の観光案内ではない。
ノートル=ダムやシテ島、ルーヴルなどに触れながら、街に幾重にも積み重なった歴史をたどり、その先にある未来を描いている。
冒頭の「未来」では、パリを首都とし、「フランス」ではなく「ヨーロッパ」と呼ばれる共同体が生まれ、さらに「人類」へと発展していくという壮大な構想を示す。
戦争がなくなり、教育が広まり、人々が国境を越えて結びつく。通貨や度量衡、法の統一にも触れているのが興味深い。
じつはこうした統一への構想は、当時、現実にも動き始めていた。
1867年パリ万博は、メートル法の普及と計量単位の国際的な統一を促す場にもなった。
その動きは、1875年のメートル条約と国際度量衡局の設立へとつながっていく。
ユゴーがその制度づくりに直接関わったとは確認できないが、彼の未来像は、万博を舞台に進む国際協力の動きと響き合っていた。
そして文章の最後を飾るのは、「平和宣言」である。
この「平和宣言」で、ユゴーは万博を、人々が出会い、互いの理想を知る場として捉えている。
写真や電信、機関車など、かつての夢を実現した発明を称える一方、会場に大砲が並ぶ矛盾には皮肉を向ける。
政府が軍備を整えていても、人々の交流はそれを越えて進んでいく。
ユゴーは万博に、国境を越えた連帯と、戦争を乗り越える未来への希望を見ていたのである。
世界の人々や産物が集まる万博に、ユゴーは国境を越えた交流と平和への可能性を重ねている。
そこにはフランスとパリへの強い誇りがあるが、その視線は一国を越えた未来へ向けられていた。
ナポレオン3世の万博を機会に、その体制に反対する文豪が、亡命先から別の未来像を世界へ示したとも読める。
島根のホワイエから、万博の時代へ
島根県立美術館で足を止めた二つの彫刻。
マイヨールの《河》からは、横たわる女性像の歴史や、パリとニューヨーク、大阪の万博へと想いが広がった。
ロダンの《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》からは、1900年のアルマ館と、そこに展示されたもう一人の文豪バルザックを通して、1970年大阪万博へとつながっていく。
そしてユゴー自身をたどれば、1867年パリ万博に寄せて描いた、パリと世界の未来にも行き着いた。

オーギュスト・ロダン《ヴィクトル・ユゴーのモニュメント》(部分)1897年、ブロンズ、島根県立美術館蔵。
photo©️Kyushima Nobuaki
島根県立美術館で、険しい表情を浮かべ、大きく左手を伸ばすヴィクトル・ユゴー。
1867年パリ万博のときに人類の未来を描いた彼は、今の時代の人類をどう見ているのだろうか。
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